王仁三郎がみろく様

 明治43年(1910年)に、王仁三郎は出口家の養子手続きを終え、「上田喜三郎」から「出口王仁三郎」に正式に改名しました。
 王仁三郎という名前の由来は、明治33年の沓島開きの出発の前に出た筆先(なおが自動書記で半紙に書いた神示)に、「喜三郎」ではなく、「おに三郎」と書いてあったのです。
 かつて何かの折りに自分の名を「鬼三郎」と署名したこともありますが、今回は神様が「おに三郎」と書いたのです。その後、「おに」に「王仁」の文字をあて、王仁三郎と名乗るようになりました。
 「おにさぶろう」ではなく「わにさぶろう」と呼んだり、親しみを込めて「ワニさん」と呼ぶ人もいます。

 王仁三郎は神苑をどんどん整備し、金竜海(池)、統務閣(開祖の居宅)、金竜殿(道場・拝殿)などが建設されて行きました。
 大正5年(1916)、教団名が「皇道大本」(こうどうおおもと)に改称されました。
 その年の6月25日、神示により瀬戸内海に浮かぶ神島(かみじま)という無人島に、艮の金神の妻神である、坤の金神の神霊を、綾部の大本にお迎えするという神事が行なわれました。これを「神島開き」と呼んでいます。

 9月に二度目の、10月に三度目の神島参拝が行なわれましたが、この三度目のときに、なお自身も驚くような筆先が出たのです。

「みろく様の霊はみな神島へ落ちておられて、未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が、みろくの神の御霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ。みろく様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊(艮の金神)は地の先祖であるぞよ…」

 みろくとは仏教でいう弥勒菩薩のことで、お釈迦様の入滅後56億7千万年後に現われて人々を救済するという一種の救世主信仰が、日本では戦国時代のころから民衆の間に広まっていきました。
 筆先では、王仁三郎にかかっていた神霊──坤の金神、素盞嗚尊、小松林の霊はすべて、みろく様の系統であり、それがなおにかかる国常立尊よりも尊貴な、天の神様であると示されているのです。

 なおは今まで、王仁三郎にかかる神霊は自分より低い、悪神の系統だと思い込んでいました。
 しかし実は正しい神様で、自分の神業を助けに、天から地に降りてきて下さった、みろくの大神様だったということを、自分の手から出た筆先で知らされたのです。
 これを「見真実」(けんしんじつ)に入った、といい、大本神業において重要な出来事の一つです。

 なお開祖の神観の大転換により、王仁三郎に対する役員信者の態度も改まり、以後は王仁三郎の活動は大分やりやすくなりました。