神聖運動とは何か

 昭和6年(1931年)出口王仁三郎は、
「今年は1931年で“いくさのはじめ”であり、皇紀だと2591年で“じごくのはじめ”である」
 と語呂合わせで警告を与えました。

 その年の9月8日、神命により綾部の本宮山(ほんぐうやま)に、三つの歌碑が建てられました。このとき王仁三郎は、
「10日後に満州で大きな事件が起き、それが世界的に発展する」
 と予告したのです。

 それから10日後の9月18日、満州事変が勃発しました。
 日中戦争から第二次世界大戦へ、長く長く続く戦争の幕が開いたのでした。

 満州問題は紛糾して、日米間の対立、そして世界的な紛争へと発展する様相を見せていったのです。
 国内では「非常時日本」が強調され、愛国思想が高揚されました。

 大本でも国難に対応した活動が活発になりましたが、それは必然的に愛国運動的なものになっていきました。
 人類愛善会を始め、青年組織の「昭和青年会」、婦人組織の「昭和坤生会(こんせいかい)」、武道団体の「大日本武道宣揚会」などの関連団体を総動員して、防空運動、農村救済運動、挙国更生運動、国体闡明運動、国防運動など多方面にわたる運動が、街頭でのデモ行進、展覧会、講演会、「人類愛善新聞」の頒布など、多様な方法で通して展開されました。
 その結果、政治家や軍人を始め各界の名士たちも、参加・支援・協力するようになっていきました。

 犬養毅首相が殺害された五・一五事件(昭和7年)、国連脱退(昭和8年3月)による国際社会での孤立化など、世相はますます悪化するばかりです。

 昭和9年(1934年)7月22日、王仁三郎は東京・九段の軍人会館(今の九段会館)で、昭和神聖会の発会式を行ないました。

 王仁三郎が統管に、黒竜会の内田良平と、出口宇知麿(うちまる。王仁三郎の三女の夫)が副統管に就任。
 発会式には内務大臣・後藤文夫、衆議院議長・秋田清、国会議員、将校、大学教授など各界の名士3000人以上が集まり、空席がなくなるほどでした。アジア主義者の頭山満や、日本の国連脱退を決めた外交官の松岡洋右も列席していました。

 その綱領には「皇道の本義に基き祭政一致の確立を期す」「神聖皇道を宣布発揚し、人類愛善の実践を期す」と記されており、当時盛んに唱えられていた「皇道」(こうどう)が強調されています。

 しかし王仁三郎の説く皇道とは、一般にいわれていた偏狭な排外的な日本精神とは根本的に異なるものでした。
 王仁三郎においては「皇道」と「人類愛善」とは全く同義だったのです。その人類愛善の大精神とは「人群物類をことごとく神の愛すなわち愛善によって育み養ふ精神」であると述べており(『神聖運動とは何か』)、その大精神をあまねく地上に宣べ伝えることが、昭和神聖会の使命であるというのです。

 この王仁三郎の説く皇道の真意が必ずしも理解されていたわけではありませんでしたが、昭和神聖会の運動は大衆の心をつかみ、1年後には会員数800万人にものぼる、日本有数の有力団体に成長ししていきました。
 それに伴い、王仁三郎・大本をこころよく思わない人たちの敵愾心も強まっていったのです。