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左上「大本」の題字は
出口王仁三郎聖師筆
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機のお仕組

『機のお仕組』 (平成3年10月25日)

 大本教団執行部は平成3(1992)年、三代教主の一年祭を機に出口聖子名で「ご神意のまにまに」という文章を機関誌『おほもと』10月号に発表しました。そこには出口聖子氏が教嗣を受けて教主になるまでの経緯が、くわしく述べられております。
 しかしこの聖子氏の文章はかたよった皮相的見方にとどまり、事件の真相は包み隠されていると言わざるをえません。一方的にかたよった情報だけが流され真実が隠されるのを憂い、事件の真相を明らかにすべく徳重高嶺氏ほか大本の重鎮として長く活動してきた四氏の連名により発表されたのが『機のお仕組』です。
 当時から20年以上が経過しましたが、現在大本教団公式サイトにおいて「反教団事件の本質」と題して事実に基づかない、また誤った解釈による言説が掲載されておりますので、一方的な情報による誤解の蔓延を防ぐため、ここに再掲させていただきます。
 なお、割付の変更により一部表記を変更、固有名詞の誤りについて訂正を行っておりますことをご了承下さい。肩書は当時のものです。また、パンフレット実物のPDFファイルもダウンロード出来るようにしております。
『機のお仕組』
徳重高嶺(元 大本総務・資料編纂所所長)
安本 肇(元 大本総務・審議会議長)
谷前清子(元 大本総代・聖師様近侍)
峰守和一(元 大本佐賀主会長)
1. 包み隠された真実
2. 問題解決に努力された栄二先生
3. 四代をねらうたくらみ
4. 円満な解決をねがって
5. いわれなき教嗣変更
6. 神の仕組は動かざるべし
7. 機の仕組のあとつぎ

1.包み隠された真実

 皆さまにはますますご清栄のことと、およろこび申し上げます。
 私どもは聖師さま、二代さま、三代さまに仕え、第一次・第二次の大本事件を経験してきたものです。現在十年以上におよぶ第三次事件の中にあって、教団の現状に強い関心を抱いております。
 三代さまの一年祭も無事すまされたこの十月、『おほもと』誌には、大本教主出口聖子名で「ご神意のまにまに」という文章が発表されました。そこには教嗣を受けて教主になるまでの経緯が、くわしく述べられております。しかし長く大本にあって事件の推移をつぶさに見守ってきた者から見ますと、この聖子さんの文章はかたよった皮相的見方にとどまり、事件の真相は包み隠されていると言わざるをえません。この現代の言論の自由の保証された情報時代において、一方的にかたよった情報だけが流され、真実が隠されるのを憂い、老齢をかえりみず、あえて所信を申し上げるしだいです。
 この文章で聖子さんは、裁判に訴えたことが悪の根源であり、全ての元凶であるとされております。しかし、なぜ裁判が起こされたか、提訴せざるをえなかったかの事情については、ご存じないのか、少しもふれられておりません。また裁判をとり下げなかったがゆえに、四代直美さまの追放は当然であるとされております。はたして、そうでしょうか。聖子さんが少しもふれなかったこれらのことの中に、第三次事件の真の原因が伏在し、現状を知るうえにきわめて重要です。しかし、いままで「三代さまが決められた」という名目だけが強調され、その下に隠された事件の真因については、明らかにされずに今日に至りました。開教百年を目前にひかえた現在の大事なときに、当時をふりかえりつつ、これらの問題にふれたいと存じます。
 栄二先生が、なぜ裁判に訴えられたか。一つには、教団の中で自由にまた公平に意見を聞いてもらい、話し合う場がなかったからであります。教えにもとづく解決など、とうていできない状況だったのです。もう一つは、四代直美さまの地位を守り、大本の道統を安定させるためでありました。

2.問題解決に努力された栄二先生

 かえりみれば昭和五十五年七月二十八日、三代さまのもとへ大石氏の上申書が提出されました。これがのちに栄二先生処分の重要な根拠とされました。この頃から、栄二先生追放劇が、具体的に表面化してきました。
 昭和五十六年には「大本審査院規程」が定められ、審査院の強化が行われ、栄二先生にたいする追及は、いよいよきびしくなりました。
 昭和五十六年四月一日に「大本審査院規程」が突如『愛善苑』誌に発表され、五月一日に施行されるという急造のものでした。その主旨は、本来会計監査が主たる任務であったものを、懲罰のための審査機関としたことです。検事の役と裁判官の役とを一身に兼ね備えたような機関で、しかも教主直属という権限の強い組織です。規程では一応審議が行われることになっておりますが、それは形式的なものでした。密室において、弁護士もつかず、とり調べを受ける人は、検事兼裁判官もどきの審議委員等によって一方的に罪がつくられ、処罰の宣告を受けることになります。罪人を仕立てあげるには、きわめて便利な組織でした。発表当時、この非民主的な審査院規程にたいし、全国から猛反対の運動がおこりました。
 この急造の審査院が、栄二先生を罪人に仕立て上げるべく、活動を開始しました。それは先に提出された、大石上申書にもとづいてであります。この上申書をきっかけに栄二先生を悪の元凶とする十二項目がつくりあげられました。しかし栄二先生は、この十二項目を認められませんでした。それは当然です。この十二項目には二十年も三十年も昔のことが、“罪状”としてとりあげられておりました。もちろん、それらのほとんどは事実無根のことであり、また過去において解決ずみのことでした。処罰の対象としてとりあげるには、じつにとるに足りないことだったのです。
 ところで、聖子さんは「一度も話し合わず、裁判にもっていくことは…」と述べていますが、それは事実に反します。
 昭和五十五年に、この審査院から栄二先生に質問書が出され、栄二先生は十二月六日、さっそく審査院を訪れ、長時間にわたり話し合いをされました。しかしながら、その時の審査院は、話し合いができるような場ではなかったのです。審査院の密室において検事兼裁判官の前で、どうして反論と弁明ができましょうか。公正な審議の場は、教団のなかには、なかったのです。
 また昭和五十六年五月二十七日、当時の総代会議長も尽力され、問題解決のため広瀬氏宅で話し合いがなされ、教主さまからのお言葉もあり、翌日直美さまと栄二先生は、三代さまにご面会する予定でした。しかしある者の妨害により、その日の朝、急に中止の連絡がはいり、それも実現されませんでした。
 ところで、教団執行部は、栄二先生の懲罰を急いでおりました。十二項目の罪状を認めない栄二先生にたいし、ゆっくりとした審議につきあっていられません。そこで執行部はいろいろな手段を考えていたようです。
 六月二十四日、広瀬静水現人類愛善会々長と奥田宗弘現副本部長は、栄二先生を東京新宿のプラザホテルによび出し、「どうしても詫状を書いた方がよい」と詫状を書くことを、強く説得しました。栄二先生は「自分は悪いことをしていないので、詫状は書けない」と断られましたが、「詫状を出さなければ直美さまにも害が及ぶ」「これを出せばみんな解決に努力する」という二人の説得に応じ、広瀬、奥田両氏によって書かれた文案で、三代さまと小川審査院長に詫状を出されました。栄二先生も詫状を出すことに不本意ながら妥協し、なんとか問題を解決しようと努力されました。
 しかし、事態は両氏の言葉とは逆の結果となりました。「自分が悪いから詫状を出したのだ」と栄二先生処分のための証拠として利用されてしまったのです。この詫状は六月二十六日提出されましたが、これによって栄二先生処罰の準備は完了しました。

3.四代をねらうたくらみ

 栄二先生は、昭和五十六年九月五日、宣伝使、祭教院長ほか一切の役職を解任されました。審査院における裁決の結果“懲罰”かおこなわれたわけです。とくに注目すべきことは、審査院規程の施行が五月一日で、早くも九月五日には栄二先生の追放が行われたという、このスピードです。いかに教団執行部が先生の追放を急いだかがわかります。
 審査院規程を急遽つくり施行したのも、栄二先生の追放が目的だったのです。先生には、公正な弁明の機会もなく、問答無用の態度で、一方的にこの処分を宣告されたのです。人を裁くなと教えている大本のなかで、このように非道な処分が行われたこと、さらには、それが今日においても信用されていることには、呆れてしまいます。
 このような状況の中で栄二先生には裁判に訴えるよりほかに、ご自身の潔白を証(あかし)する道はありませんでした。
 しかし、栄二先生の提訴に最後の決断をもたらしたのは、直美さまの四代の道統をねらう黒い影です。四代直美さま追放の謀計は早くからあり、昭和五十六年には、あらわに人の囗にささやかれるようになりました。
 先の詫状の一件において教団中枢にいた広瀬、奥田の両氏が言ったように、教団執行部のほんとうのねらいは、直美さまの追放であったのです。栄二先生も、その黒い影を敏感に感じとっておられました。そしてやがて、その不安を裏づける事件が起こりました。それは祭教院の廃止であります。
 昭和五十六年九月十三日第五十六回総代会において、祭教院は廃止されました。この決議はすでに、四代直美さまの追放を視野に入れたものであります。なぜならば、つぎの教主継承者を選び決定するとき、祭教院の同意が必要であったからです。教主継承に関する事務の主役は祭教院であり、そのまとめ役は祭教院長です。したがって祭教院の廃止は、直美さまの神定四代の改ざんの準備であったわけです。祭教院の廃止は、栄二先生に、自分のつぎは直美さまが追放されるという予感を、つよく感じさせたのであります。
 栄二先生は、ご自分の潔白を、法社会の公開の場であきらかにすべく、また、四代の道統を守るために、裁判に訴えられました。しかし教団執行部にとって、直美さまの追放は既定方針でした。それはこれまで述べましたように昭和五十六年の栄二先生追放以前からの、周到なたくらみであったのです。裁判を続けることは、大本の道統を守り、真実を貫くためでありました。

4.円満な解決をねがって

 四代直美さまにつきましては、聖子さんも「生まれた時から、直美姉は、教主となるべき立場の人で、聖師さま、二代さまも、そして毋もその期待を寄せていました」と言われておりますように、誰もそれが覆るなど、夢にも思わなかったことでしょう。しかし、聖師さま、二代さまには、前途にただならぬ暗雲が立ちふさがるのを見とおされ、三十年、四十年後の今日のために、予言的警告の言葉を遺されました。
 祭教院が廃止された昭和五十六年の秋には、いままで念頭にもなかった聖師さま、二代さまのお言葉が、いよいよ身近に感じられるようになりました。そのようなとき、昭和五十七年五月二十六日、栄二先生が予感されたとおりに、直美さまの教主継承者からの追放が決定されました。それは「直美さまが栄二先生の裁判をとり下げなかったから」という理由からでした。裁判は訴えるべき正当な理由があったからこそ、提訴されたのであり、無条件にとり下げるというわけにはゆきません。
 五月二十六日の総代会で直美さまの教嗣追放が決定されたのち、聖子さんの文章に述べられているような、裁判とり下げをめぐる話し合いが行われました。聖子さんは、その日時を明らかにされておりませんが、正確な記録にもとづいて申し上げたいと存じます。
 聖子さんの、教嗣の変更から教嗣を受けるまでの文章のくだりを読んで、まず感じますことは、訴えを起こされたのは栄二先生であるのに、直美さまが訴え、直美さまがとり下げなかったかのような書き方をしていることです。たとえば直美さまのお言葉として「私は、お母さんを訴えたんやない、教団執行部を訴えたんや」と書かれております。訴えたのは栄二先生であり、直美さまがこのように言われるはずはありません。直美さまが訴え、かつ裁判のとり下げを拒否されたかのように、ことさらに印象づけておりますが、それは事実と違います。
 また、聖子さんはこの文章において、ご自分の裁判のとり下げのための努力が、全く無視されたかのように述べておられます。これも事実と違います。栄二先生が裁判に訴えられたのは、四代直美さまの教嗣としての地位を守り、大本の道統を守るためでありました。したがって聖子さんの言われる、裁判とり下げの努力に、栄二先生は応じられたのです。
 聖子さんが言われているように、合計四人で掬水荘に来られたのは、昭和五十七年六月八日のことです。「教嗣を受けないから裁判を降ろしてほしい」ということでした。栄二先生はその提案を受け入れることにされました。そして聖子さん宛の手紙を、六月十日、広瀬静水氏に託しました。その文面は、聖子さんが教嗣を受けないという意志をキッパリと表明されたら、ご自分の提訴したすべての裁判をとり下げようと、双方の弁護士さんを交えた円満な話し合いによる解決を、提案されたものでした。弁護士を交えた話し合いを栄二先生が求められたのは、無条件に裁判をとり下げることはできなかったのと、広瀬、奥田両氏の詫状の一件における苦い経験からです。

5.いわれなき教嗣変更

 しかし、栄二先生の解決への誠意は、結局、報われませんでした。栄二先生の手紙が、広瀬氏にとどけられた六月十日、聖子さんは、教嗣を受けてしまったからです。この日、聖子さんは教嗣を受けたのち、広瀬静水氏宅で、つぎのように語っておられます。
 「私が受けておかないと、京太郎がでてくる。あそこの娘の鏡のところに(教嗣が)いってしまったら、もうとりかえしがつかん。私が受けておいて、いづれ直子さんにかえす。直子さんと直美姉さんは親子だから、直子さんから直美姉さんにかえせばいい」。
 これが聖子さんの教嗣受諾の弁でありますが、それはともかく、裁判とり下げの話し合いのさなかに、教嗣を受けられましたので、解決のための話し合いは、中途で頓挫してしまいました。
 この『おほもと』誌の文章で聖子さんは、栄二先生が裁判とり下げの話し合いに応じられたことには一言もふれず、しかも、直美さまがとり下げを拒否されたかのように言われておりますが、実際は、以上のとおりでした。栄二先生の裁判とり下げによる事件解決への努力は、実現しないで終わりました。
 しかし、栄二先生が、事件解決に努力されたという事実、これは重要です。
 教団執行部はこの際、裁判とり下げよりも、直美さまの追放を選んだということであります。そしてそれは、執行部の既定方針であり、「裁判をとり下げなかった」ということは、直美さま追放のための、たんなる口実にすぎなかったことを示しております。
 ところで、ここでみなさまに申し上げたいのは、裁判をとり下げなかったこと―これが直美さまの地位剥奪の理由とされました。聖子さんもそれを当然として疑っておりませんが、この理由が、大本の道統をくつがえすほどの、妥当な根拠となりうるでしょうか。
 訴えたのは、栄二先生であり、直美さまではありません。裁判のとり下げは、栄二先生の問題であり、直美さまにはかかわりのないことです。しかるに、どうして直美さまが、その責任を負わなければいけないのか。とんでもないことです。
 また、裁判に訴えたことには、正当な理由がありました。やむをえず訴えざるをえない状況があり、そこまで追いつめた執行部の常識に反する行為こそ、問題とされるべきでしょう。裁判に訴えられた問題、また裁判とり下げの問題は、栄二先生と執行部との間で、充分に話し合われるべきでした。しかし、教団内においては、平等な立場で公平に話し合いをすることができなかったのです。
 教団執行部は不当にも、裁判の責任を、すべて直美さまに転嫁してしまいました。三代さまの名を冠することによって、執行部の策謀も責任も、すべておおい隠され、ただ直美さまが、犠牲になったのです。
 しかし、大本の道統は、このような虚偽の作文によって、ほうむりさられるわけにはゆきません。それは、みろくの大神と国祖の、天地の大神がこの地上に経綸をされる、その御霊代(みひしろ)として定められたものです。代々、神定の教主さまが立ってはじめて、そのご神意が貫徹されるのであります。したがって、このような根拠薄弱な理由をもって変えるとは、もってのほかのことです。

6.神の仕組は動かざるべし

 四代直美さまの道統につきましては、開祖さまのお言葉があり、聖師さまのお歌があります。聖師さまは、直美さまご誕生のときに、四代を決められるお歌を詠まれ、さらに、ご昇天の二年前にも、「四代に与ふ」として四代の証ともいうべきものを渡されるという、念の入れ方でした。厳瑞の教祖が決めれた、四代のお世継であったのです。これにたいして聖子さんは、「しかし、大事なことは、それらの歌、文章が発表された時とその後の状況が全く変わっていることです」と述べ、それゆえ聖師さまのご決定に反して、抻定四代の道統を変えてもよいと主張されております。
 しかし、二代さまは、このように四代直美さまの道統を変えようとする人々にたいして、『大福帳』のなかで、つぎのように答えておられます。

 「そういう事を申すから、大神さまが先にきめていられるのである。仕組が変わったとは、どの神のさしづであるか申して出よ、馬鹿神めが、何ということを申すか、悪魔めが」

 なんと神厳おかすべからざる、お言葉でありましょうか。
 また、つぎのお歌もあります。

 どれほどに気ばりて邪魔をするとても神の仕組は動かざらまし

 これらはすべて、直美さまの四代についてのみさとしでありまして、それが、今日の状況においても、動かすことができないものであることをきびしく示されております。
 また、聖師さまは、第二次事件の未決から帰られまして、亀岡の中矢田にご静養のとき、「第三次事件は内部から栗のいががはじけるように起こる」と予言されました。聖師さまはすでにあの当時、今日あるを予見され、第三次事件の渦中において、直美さまの道統が危うくなるのを深く慮り、念入りに四代の証まで残し、直美さまを四代として決められたのであります。
 また、二代さまは晩年、大本の前途を心配され、特に、四代直美さまの道統が邪魔されるのをおそれられ、「その時は四代直美を守ってもらいたい。七十人おれば勝つ」というお言葉を伝えられ、切々と訴えられております。
 このような二代さまのお気持は、『大福帳』として、今日に遺されております。これらの聖師さま、二代さまの四代の道統に関するお言葉は、大本の乱れた今日にこそ、かえりみられるべきであり、大本の信徒が深くその神意を体し、大本立直しの基(もとい)とすべきでありましょう。

7.機の仕組のあとつぎ

 聖子さんは、ご自分が三代さまによって決められたことを、さかんに強調しておられます。三代さまのご神格を説かれたうえで、「その三代教主さまによって、次代の教主が決められたということを考えていただきたいと思います」と、ご自分の“教主”としての正当性を主張されております。しかし、はたして、それはほんとでしょうか。
 聖子さんが教嗣を受けられた昭和五十七年六月十日、三代さまは、つぎのように話しておられます。
 「聖子は教主にはなれない。教嗣だ。暫定的な教嗣である」と。
三代教主さまのお言葉から拝察いたしますと、三代さまは、「聖子さんを教主に」とは、決しておっしゃっていないといえましょう。聖子さんは、あくまでも暫定的な教嗣であったのです。
 三代教主さまは順序に――とくに神的順序に、また長幼の序に、厳しいお方でした。それは、直美さま以外のお二人は、他家にお嫁に出されるなど、その厳しさのあらわれです。
 しかし三代さまの引退さえも、もくろんだといわれている宇佐美総長(昭和五十七年二月〜昭和六十二年五月)におしきられ、四代直美さまを教嗣から降ろされました。
 ところで、昭和六十一年、三代さまはつぎのお歌を直美さまに下されておられます。

 八歳の時よりうたを学びつつ祖母のあとつぎはた織る直美子
 鉱泉に浸せし糸を機に仕組み祖母のあと継ぐ一人直美が

 大本の神のご経綸は「機(はた)の仕組」といわれ、「機織る人」とは教主さまのことであるのは、周知のことです。この二首のお歌は「機の仕組」の「機織る人」としてのあとつぎは、直美さまお一人であると、明快に示しておられるではありませんか。これは、三代さまが大本に遺された遺言といえましょう。これほど重大な意味をもつお歌も、昭和六十一年当時の宇佐美執行部からは、黙殺されたのであります。
 大本は、二大教祖のみ教えに基づいて、教団が運営され、信仰が営まれてゆくべきところです。教祖のお言葉に背いたら、大本とはいえません。
三代さまは次のように示されております。
「教祖と教主は違います。私は教主であって教祖ではありません。教主は教祖の決めたことを変えることはできません」(昭和四十四年九月十九日)

 開祖さま、聖師さまのお言葉は、「毛すじの横はばほど」も変えることはできません。ことに、大本四代の道統継承という重大事においては、なおさらのことであります。
 来年は開教百年です。私どもが生きてきた長い歴史のなかでも、現在の大本は開教以来、もっとも難しくかつ大事な時期にさしかかっております。策謀と虚偽の作文のうえに築かれた現在の大本を立て替え、真の大本に立て直すべき時です。
 教団の組織も、また信徒の皆さまも、神定の四代教主さまのもとでこそ、神さまのお光にあまねく浴すことができるのであります。
 教主をまちがえたら、抻さまのお光は、さえぎられることでしょう。
 老いの一徹から長々と申し上げてしまいました。無礼の段お許し下さい。
平成三年旧九月十八日(新十月二十五日)
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