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左上「大本」の題字は
出口王仁三郎聖師筆
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なぜ栄二先生は提訴されたか

『なぜ栄二先生は提訴されたか?』
(平成17年6月1日)

 教団執行部は出口直美様の教嗣変更の理由を、夫である出口栄二氏が教団を提訴したことを制止せず、同調したこととしています。出口栄二氏の提訴の責任を、妻である直美様に負わせるということ自体、憲法が保障する基本的人権に対する無理解が見て取れますが、そもそもなぜ栄二氏が提訴に踏み切らざるを得なかったかという点が全く考慮されておりません。
 このパンフレットでは、出口直美様を教主継承者から外そうという動きが古くからあり、栄二氏への弾圧はその目的を達するためのものであったこと、栄二氏はその動きを察知し防ごうとしたこと、教団の非民主的懲罰に対しやむなく提訴したこと、等が説明されています。先に出されたパンフレットと重複する内容もありますが、未掲載であった事実も多く書かれていますので、ぜひお読み下さい。
 発行から10年ほどが経過しましたが、現在大本教団公式サイトにおいて「反教団事件の本質」と題して事実に基づかない、また誤った解釈による言説が掲載されておりますので、一方的な情報による誤解の蔓延を防ぐため、ここに再掲させていただきます。
 テキスト版ではパンフレット中の第一部『なぜ栄二先生は提訴されたか?』のみ掲載します。第二部『提訴後のあらまし』は表が多いため、PDF版でご覧頂けます。なお、割付の変更により一部表記の変更を行っておりますことをご了承下さい。肩書は当時のものです。
事件資料 − 特集号(改訂版) なぜ栄二先生は提訴されたか?
第一部 なぜ栄二先生は提訴されたか?
1. 引き続く教団の危機的状況を糺す
2. 問題の核心は、野望にみちた非民主的執行部の巧妙陰湿な教団運営
3. 出口栄二先生の懲罰は大本四代教主追放が目的だった。大本の道統を守るべく栄二先生は提訴された。
4. 陰湿な小細工が常にしかけられた
5. おわりに

はじめに

 聖師は今度の大本第三次事件―出口栄二不当弾圧事件―を前々から予言警告されていた。だから将来立て直しの神柱として核となり支えてくれると思われる信徒にそれとなく注意されていた。地方でよくそんなお方にお目にかかる。聖師の深謀遠慮にはただただ頭が下がり驚かされる。今その因縁の方々またその人脈をたぐり直し、も一度深く掘り返して吾々の真実正道を踏む連合会の組織をより一層刷新・強化し、社会の要望に対し時代的に即応対処して行く事が目下の緊要な課題だと思われる。殊に事件の真相本質を的確にとらえ、冷静に歴史的に正しく理解して頂き、明日への教団正常化活動の糧となり、その一助ともなればと、ここに研修資料―特集号―をお届けする次第である。
二〇〇五(平成十七)年六月一日
特別委員会
第一部 なぜ栄二先生は提訴されたか?

1.引き続く教団の危機的状況を糺す ―明日の教団の平和を祈念して―

 第三次大本事件ともいうべき「出口栄二不当弾圧事件」を今静かに振り返ってみると、大分前から栄二先生を中傷するまことしやかな色々なデマや虚偽の宣伝が一方的に巧妙になされてきていました。
 「嘘も百辺言えば真実になる」と心得てか、次々と陰湿な情報操作が巧妙になされ、どれ程善良で真面目な大本の信徒等を始め聖地綾部の市民を不安にして迷わせ又どれ程迄に不信感を与えてきたことでしょう。その二、三を紹介しましょう。
 曰く、“三代様までは女がお世継だと筆先に記されているが、後の四代については何も書かれてない。だから日本の永い伝統的男子継承相続にしたがって四代から男子の京太郎氏になるのだ。これがまず教団の「立替え立直し」というのだ”と、まことしやかに宣伝したり、或いは“栄二は元来信仰など分らない唯物論者で共産党員か或いはそのシンパだ。だから教団内部の問題を署名運動や要望書等を以て社会的に拡げたり尚又殊に一九五四(昭和29)年のビキニの米国の実験反対運動をいち早くやったり平和憲法擁護の運動や、又一九六二年のモスクワでの全面的軍縮の世界大会に日本宗教代表で参加したのだ。そして又その帰路北京に立寄り周恩来総理を始め中国の要人達と懇談が出来たのだ”と。或いは曰く、“直美さんは一応あゝ決まっていても結局は三女の聖子さんが四代教主になるよ、だから「聖(セイ)子」と名付けられたんだ”等々、また他にも社会的にも面白おかしく、一般的にも浸透し易いそんな悪意あるデマが飛びかいました。
 悪意ある攪乱戦術はある程度功を奏し、そして次の打つ手をうす笑いしながら考えていた事でしょう。しかし大本人として考えてみればこれ程恐ろしいことはなく、終に聖師様、二代様が御警告されていた様な大本教団にとり最悪の危機的状況が刻々に近づき迫り来る一歩手前だったのです。

2.問題の核心は、野望にみちた非民主的執行部の巧妙陰湿な教団運営
  ―初めに出口栄二先生の追放ありき―

不意打ちをくらった栄二先生

 第一回目の栄二先生に対する質問書―但馬(たじま)問題、山川書簡、出口なおを想う集いに関して―という形で先生に質問をし、文書による回答を求めて来ました。そこで先生は自分個人の意見でなく祭教院長、教学委員会議長という公的な大本教学という広い根本的立場で対処すべきであり、尚又三丹問題、いづとみづの問題等について内部での見解に従って、審査院や執行部にも対応して来ていたので、それやこれの種々な質問状が先生宛に来たことを会議で述べました。各委員の意見を正したところ、文書だけでは十分に相手に理解さすことは困難だろうと、昭和五五年一二月六日、小川審査院長の了解の上で祭教院・教学委員会関係から栄二先生、大国、徳重、伊藤、日野の諸氏と又、書記として長谷川、出口三平の両氏が、尚又先方(審査院)よりは小川、小林、多田、三ツ野の諸氏と書記に東尾氏の計一二名が事務所の応接室で、まず三丹問題から懇談に移りました。実際は懇談会というよりは主としてこちら側からの事実経過説明会的内容となり、三丹の特殊性又実態についての認識の問題や、たとえ教主の命名はあってもその時は未だ主会か分苑か又趣味的同好人の会かその実体は不明であり、大本の行政、地区別の主会の中に新設する「宮垣」を如何に位置づけるかが問題でした。結局の所、教団本部は昭和五五年八月七日、教主名をかさにして「宮垣分苑」として何が何でも設立を強行しました。そんな一方的無茶を強行したために一層混乱したのでした。註(1)
 さて、第一回の懇談では問題の説明に二時間を要し、残る二問の説明に二時間半を要しました。その間、審査院の委員の質問した問題認識程度と相互主張の相違がクローズアップされましたがそれは当然でしょう。そこで当然ギャップをうめる努力が必要です。即ち、審査院は厳正公平な立場で真実探求のため、客観的資料、事実の研究又実情調査を為すべきであります。然しそれにもかかわらず、三丹地区に出向き調査されたということは未だ一度も聞きません。そして誰が見ても余りにも一方的に偏し、聖師、二代教主の三丹分離不可の厳命を破り、三丹を分離せんとの野望をもつ側に一方的に肩入れし、三丹の役員の人は三丹主会が一切知らぬ間に組織を無視し一方的に教主に直接早々と新設教会の名称(宮垣分苑)を頂き、教主の名で三丹の信徒の言論を封じてしまい、その影響する所は大きく、善良純朴な三丹の信徒・役員の信頼をすっかりなくしました。当時の教団執行部の余りにも非民主的な独断的やり方に純朴な三丹の信徒は次第に亀岡の執行部は当てにならぬと自己防衛し、尚また執行部のこうかつな作為をもつ意図的施策を見抜き、両者の間に不信感が益々深まり、問題解決に一層の困難を生じてきました、執行部はただ面子にとらわれ、如何(いかん)ともなし難く孤立してしまい、終に正当な判断を下した教学委員会、祭教院の決定を無視し、逆に敵視するに至りました。そのため終に円満な話し合いの機会を失して了ったと云うべきで、ここまで来てしまっては実に残念至極なことです。従って第一回の質問と、それに関連した経過を通して、執行部、審査院の事件処理の不誠意な態度が一般にもよくわかり参考になりました。
註(1) この点は第三次事件−つまりその発端となった三丹問題の核心でもあります。つまり故大国先生が一番最初に三丹地方の特派に任命された時、聖師の言として「三丹はどんなことがあっても絶対に分けてはならぬぞ。たえず本部と一体的になってやってくれ…」と厳命されています。その点に関して「青垣山」(昭和55年十一月二十日発行三丹機関誌)に記載され、またS59年十一月に大本審査院長宛の大国先生の弁明書に明確にあります。なお又三代教主が島根の安本肇氏をわざわざ参考人として綾部に呼ばれた時、教主は「自分は三丹主会の中に主会の機関を通さずに名称を与えたこと―宮垣の―がまずかった」と、明確に安本氏に言われ、自ら反省されている。その事項は安本氏の日記に明確に書かれている。なお又新発足当時の三丹連絡事務所主任は栄二先生がなされ、三丹をよく巡教された折にも二代様の言として「三丹は本部と一体的になってやってくれ、決して本部だ地方だと、はだはだにならず、いつも一緒になって力を合わして御神業を進めてくれよ。勿論三丹を又分けるようなことしたらあかんぞ」とよく注意を喚起された二代様のお言葉を伝えられ注意された。

非民主的・一方的懲罰に対し止むなく栄二先生法廷で訴え

 教団執行部は、“とにかく出口栄二氏の提訴したのは−一九八二(昭和五七)年十二月八日−一番悪い”の一点張りで、自分達のこれまで色々と陰湿巧妙にして来た非事は棚に上げて他の事は一切耳に入れさせまいと、栄二は悪い悪いと自己を守るべく防波堤を高く築いていきました。今日よくいわれる如く情報公開により真実にのっとり民主的に総合的に正しい基本路線にまず定置させることが大切です。明白で客観的な事実ですが、栄二先生が提訴される前の同年九月一日の第一七回総務会で、栄二先生の役職剥奪、教団よりの追放を決定し、そして直美様の教嗣の剥奪まで森氏は発表しました。註(2)
 さて、そこで最初に何故提訴したかの理由を、昭和五七年三月三一日に裁刊所の法廷で原告である栄二先生は陳述されています。大事な事項で重複しますが、ここでも述べます。―
 『…自分の属する教団を相手に何故に訴訟をせざるを得なかったのかという事であります。私どもは裁判に訴えるというのは、よくよくのことでないと致しません。まして人の「和」を説く宗教人なら尚更のことです。私も教団当局と話し合いによって相互理解を深め問題を円満裡に解決しようと忍耐強く進めて行こうと致しましたが、結局それが不可能である事が明確になり、万やむなく、昨年一二月八日貴裁判所(京都)に提訴せざるを得なかったのであります。
 さて、昨年九月五日付−S五六年−をもって宗教法人大本教団は私の役職すべてをいわれなき懲罰理由をもって剥奪して、私を“追放”し、生活権まで奪ってしまいました。私を懲罰するに当り、教団はいかにも時間をかけて、さも客観的に数々証拠だてられているとの印象づけをするべく、私への問責をまず昭和五五年一一月一四日付で第一回の審査院からの“質問”という形で始め、私に対し都合数回にわたり審査院への出頭を命じて来ました。―(其の内容等については先にふれたので重複をさけて略)―続いて別の懲罰理由について第二回の質問をいきなりつき付けて参りました。・・・』(昭和五六年五月八日付で五月二〇日迄に文書で誠意ある回答を求めるというものですが、栄二先生らが第一回の質問に応じ、一二月六日審査院で約四時間半質疑応答され、その間種々の相互の相違が明らかになっても、審査院側からはこれらについて何一つ責任ある調査がなされなかったということです。)
 この第一回質問書と第二回質問書の間が一八四日間です。今日振り返ってみると、この間は長年着々と準備してきた出口栄二先生懲罰と教主継承者四代直美様追放を愈々(いよいよ)確実にせんと画策し実行した基礎固めの時期だったと思われます。此の期間で特筆すべき事は「出口栄二先生を懲罰する為の審査院規程一四ケ条」を急ごしらえし、二〇年三〇年までも遡って審査(死刑でも時効は一五年)した事です。本部総局は、社会が注目する、人権にかかかる此の罰則規程を大本総代会の了承、議決を経ることなく、又勿論正当な規約上の手続きをも踏まず、問題の「大本審査院規程」を突然苑誌に発表しました。(同年五月一日施行)−ここにも執行部の非合法的独断専横なる手口が明白です。−
 このことについて、教団を心配する地方の方々は、審査院規程撤回のため「決議書」、「要望書」又撤回署名五七〇五名の名簿及び上申書を森本部長に手渡しました。しかし民主的運営は期待出来ず、執行部は何の反省是正もなく自己を正当化し多数の信徒の声を無視し聞こうともしませんでした。これが宗教人のやることでしょうか。また、四月二〇日、周辺を少し慮ってか、朝陽館にて斎司家会議が急に開かれましたが、出口栄二先生は先約があり欠席され、道統継承者直美教嗣が出席されました。 註(3) たびたびその後栄二先生の出席する斎司家会議の開催を要望しましたが終に一度も開かれていません。執行部も自分の落ち度を認めていたからでしょう。自信をもって開催すべきが当然なことです。
註(2) 森「次の問題に、教主様からご諮問がくると思う。…必ずくると思う…これは序の口と思って結構と思います。榮二先生の問題は。先のことをあまり言うと、その場になって。…両方あるんだ。…」(教学九号参照)
註(3) 栄二先生の代わりで御出席された直美教嗣のメモによれば、
日時は昭和五六年四月三〇日 木 晴
場所、亀岡市天恩郷瑞祥館
出席者、本部側 小林氏、森氏、大石氏、木田氏、沢田氏
出口家関係 虎雄氏、梓氏、新衛氏、和明氏、
尚雄氏、広瀬静水氏、三諸氏欠、
それに直美教嗣。
説明は小林氏、森氏がする。……審査室の法令に違反云々とコマゴマ説明があった。私は宗教教団で人を罰したり、細かく規定する事は宗教団体としても、益々小さく煩雑となり、ぎこちなく益々小さく、いびつになる 私は反対だと伝えた。(テープ参照と)

3.出口栄二先生の懲罰は大本四代教主追放が目的だった。
大本の道統を守るべく栄二先生は提訴された

恐るべき国祖神への挑戦 ―第三次弾圧事件の背景―

 栄二先生は昭和五七年六月二八日の公判(京都地裁)で、「…教団執行部が先に私を懲戒処分に付したのは実は私の妻である四代教主の地位剥奪をねらったものであり、そのことがここに愈々(いよいよ)現実となって現われた訳であります。此の事は外ならず、私への懲戒処分は大本四代教主追放を目的としたいわれなき処分であった事を如実に表しているのであります。」「…私と致しましては大本の将来を憂慮する方々の意見を聞いた上で、此の裁判を提訴するに至ったのは私の地位を守ると共に四代直美の地位を守り且つ又永い将来に汎(わた)って正しい大本の歴代教主の道統を護持するためでありました。
 四代教主が直美である事について、大本出口なを開祖のお言葉に 註(1)、尚又出口王仁三郎聖師の“三代の長女直美の生れしより大本四代の基礎固まれり”とのお歌に示され、また大本二代出口すみ教主も、その日記に“ここには直美と申す、しっかりとした御世継があるぞ”と明記されており、大本信徒一般も信仰の問題として大本の四代教主は出口直美であると永く信じて、今日迄疑わなかったのであります 註(2) 。このように固く定められている大本の道統を私への本件懲戒処分を端緒としてかくも重大な事柄を易々と覆す教団執行部の暴挙は、大本人として、とうてい理解する事が出来ません。…」と、強く懲戒処分の背景となる重大な問題を訴えられています。
註(1) 御神諭に
明治四十三(一九一〇)年旧四月十八日
「綾部の大本の御用継は末代肉体が婦女(おんな)であるぞよ。婦女の肉体は末代神の御用を致さすなり、男子の肉体は末代変性女子の身魂を選り抜いて世を治めさすなり、此経綸(シグミ)は何時になりても変える事は出来んのであるぞよ。」

註(2) 尚又他には徳重高嶺著「松のよはひ」参照。
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二代様日記

・・・・・
ここには直美と
申すか(し)つかり
とした御世継
があるど
教祖の
御言葉に
男の子は
・・・・・

 (二代様晩年の「大福帳」より)

4.陰湿な小細工が常にしかけられた

祭教院を廃した目的は四代直美様の追放

 裁判所に提訴したのが根本的に悪い、それを止めなかった直美さんも悪い、同罪だ、だから教嗣の資格はないのだ、だめだといいます。しかしそれは実際と違うのです。執行部は既に第五六回総代会の開かれる前の九月一日第十七回定例総務会で森本部長は「此の際、祭教院を廃止したらどうか。正式に文書をもって教主様に云々」と述べたと聞きますが種々議論して結局は昭和五六年九月一三日、第五六回大本総代会で教則を改変し、祭教院廃止を決議し、九月一九日施行しました。尚、翌昭和五七年二月二日の第五八回総代会で斎司家廃止、教学委員会廃止を決議し、二月四日施行しました。この事は実に悪辣な謀略です。この事項は「教主継承規範」第三条、第五条等々と関連して見る時、重人な意味、策謀を秘めており、この時点で既に道統継承者四代直美様の追放を明らかに意識しているものです。なぜなら、つぎの教主となる継承者を選び(教主継承規範第二条)決定するに当っては(同第三条)、祭教院の同意が必要であり、教主継承諮問会にはかって決め、教主に答申され教主が決めることに規定されています。教主継承規範によると教主継承に関する事項の主役は祭教院であり、そのまとめ役は祭教院長です。祭教院の組織・機構をなくすという事は、先に(昭和四四年一二月二八日)決定された神定の教嗣直美様を無視・御破算にする事を意味したのです。九月初めの総務会において森本部長はその事を裏付ける重大な発言をし、総務各位の覚悟を促したと聞いています。信徒として許されない悪質な術策です。

栄二先生の提訴を止めなかったから直美教嗣も責任があると、まことしやかに白々しく森執行部は一方的な独断的宣伝をした。(後述) だが提訴前に、既に直美様追放の野望

 なお又、この重大な問題に関連しますが、これより先の同年(昭和五六年)六月二四日、広瀬氏、奥田氏上京され栄二先生との三者会合(於・新宿プラザホテル)の際、広瀬氏より「詫状を出さなければ直美様にも害が及ぶ」と明け方まで夜を徹して懇談し、広瀬・奥田両氏はホテルのマーク入りのメモ用紙にそれぞれ宛の文案を書き、「これを出せばみんな解決に努力する」と広瀬氏は栄二先生と約束されたのですが、教主様と審査院長宛に詫状を出しても一向に好転せず、そこにも既に御丁寧に念の入った直美様追放の画策が動いていた事を示しております。尚その上詫状は執行部に利用され、栄二先生は自らこのように自己の非を認めていると、重要な物的証拠にされました。広瀬現総長は義兄に当る出口栄二先生にこの事柄でどう釈明されましたか?聞かして下さい。結果的にはウラ切った行為だと言われましょう。
この頃、古くからの宣伝使と言われている人の中に、人を惑わすより外に何もならぬようなことをいう人があるそうです。
聞いたことの一つは、― 大本の三代の後嗣はまだ決っていない云々など。これは或感情のための故意にか、それとも老婆心の余りにか、前者ならば糞蝿の類であり、後者ならば今一度入信の始めに帰って、筆先をよく読ませていただくことであります。と教団を憂いて止まぬ或る人に話したことでした。
(出口直日筆「続朝陽記」−「おほもと」昭和四二年一〇月号より)

5.おわりに

“時は神なり”― の秋(とき)を迎えて

 このたびの大本の道統を断絶せんとする大本第三次事件の内容を観る時、よくもかく陰湿巧妙にデッチ上げたものだ。一二項目の内容を見て理解を深めるため分類してみますと、まず歴史的に内部要因に由来するもの、或は外部関係のそれ、また歴史的に思想の新旧に分けられるものがある。殊に常識人ならとてもこんな非良心的判断や文章は書けない事等々を包含する全く恥ずかしい限りの一二項目にわたる文章である。
 さて今日世界の世相は予想を越えて劇的に大きく変容しつつあります。かの共産国の御本家のソビエトロシアでは長かったスターリン時代が終り(1922〜1953)、フルシチョフ、ブレジネフ時代を経てゴルバチョフ時代を迎え大きく変わって行った。ペレストロイカ(立直し)とグラスノスチ(情報公開)のスローガンの下、全般的に民主化を進めた。その波は東欧諸国をはじめ世界中に波及し、しかも民主主義的要求を通して日常生活の分野にまで及んで行った。さて、一九八九(平成元年)一二月マルタ島のブッシュ米大統領の東西冷戦の終結宣言は世界平和に大きく影響を与えた。日本は幸運にも景気後退を知らない上昇気流に乗って、かつてない程の景気「いざなぎ景気」、GNPナンバー1の保守大国にのし上がり世界からはチヤホヤされ、又うらやましがられた。しかし、なぜもっと創造的に世界の文化面に平和外交の進展がなされないのかと、今日悔やまれ、もどかしく感じられます。これも日本人の長い間の偏狭な先の展望が出来ない自己中心的島国根性、良く言えば一見律儀者の何とかいう性格から来るものだろう。しかしのんびりと賛美してばかりは居れません。戦後今日六〇年もの長い間、北方恐怖論を叩き込まれ、安保体制下の米一辺倒の管理社会にガンジガラメにされ脳味増まで画一化されて何でもイエスマンの創造性の乏しい体制側思考になってしまいました。大本は型を出す処と言われますが、その悪意に満ちた悪い体質や体制の極端な劣勢的「型」が神定四代直美様まで追放する、宗教人として主体性のない恥ずかしい、非良心的な、よくもこんな項目を書いたと思われる「一二項目」なるものです。
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 よく世上いわれる“時は金也”は、大本では“時は神也”です。神の御加護お力添えなくてはかないません。第一次、第二次の大本事件は巨大な悪魔的権力国家を相手の訴訟 ― 一〇年にわたる闘い ― でした。まともなガップリ四つではなかなか、かないません。しかし“時”は大本神の御心であり、御経綸です。思いもよらない敗戦という大転換の“時”によって終に解決の時が来ました。今からザッと四〇余年程前に国交も正常化してないソ連や中国に行く事はいかにもシンパか、さては党員ならいざしらず、排他的ナショナリストからは、やはり疑惑の目で見たのでしょう。そんな人が教団の主流を占めていました。しかし今日となれば、仲良くモスクワか北京まで新婚旅行ときめこむのも二人の自由です。時の推移の力はかくも明白に変化し偉大である。赤だ、いや白だ、ビンク色だと色付けは今日解消しています。しかし大本の教団は余りにも時代の流れに無関心のようでした。若し教団で問題とするなら今日これ以上“黒寄り”にならぬよう用心すべきでしょう。
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 実際考えてみれば二一世紀と云うのに時代錯誤の四代追放のお家騒動の田舎芝居は今となっては社会的に殊に広く今日の宗教界の立場から見ても一寸(ちょっと)テレクサイ感じでしょう。一体率直に見て第三次の芝居の脚本書きは一体誰だったのか? 時代的にも色々の出来事の経過を見れば明らかになる。時の流れで右よりの黒は次々と出て来ました。(この点に関しては別に取り纏(まと)めたい。)
 しかし結局、最終的には嘘見堂流氏が出て来て、人間的に見てもとても理解出来ない数々の無茶な問題をなげかけた。例えば教嗣直美様に対し、まず御役職から追放し、「掬水荘からの退去の要請文」や「掬水荘の雨漏り等の修理を拒否」し、教嗣様の神務の場である「緑寿館からの私物の撤去」「神苑内樹木剪定等の禁止について」等々、次々執拗にいやがらせしてきました。
 又特に悪質な、良心のある人ならとても出来ないデタラメな恥ずかしい不道徳行為を教主のなされた行為だとして堂々と作為した。つまり教嗣直美様の記念「しずはた」の処女出版に当り、教主様は大阪の病院の御入院先から金一封とお歌(二首)を贈られましたが、被告宇佐美本部長は「この歌は何年も前に直美にわたしたもの」などという事実に相違するデッチ上げの書面を教主様に強制して書かせ、そのインチキ文章を大本教団と関係深い更生会報で大々的に宣伝しました。(この件は昭和六二年二月二五日大阪簡裁で本部の悪質な作為が明らかに立証されました。)
 尚又昭和五八年五月二六日付で直美様宛「一日も早く神苑から立ち退くように」との旨の教主様のお手紙が届けられました。そこでその年の八月、平春子さんが直美様と一緒に教主様に御挨拶に行かれた時、掬水荘からの立ち退きの話が出され、直美様が母に当る教主様に「あれはほんとにお母さんが書いちゃったん?」とお尋ねになると教主様は「ちがうで、あれは弁護士さんに書けと言われて書いたんや」と。(平成元年一二月七日第三四回公判記録)何とした事か。親子の間をも裂かんとする人でなしの人道上許されない行為です。
 およそ裁判の内容、実態がおわかり頂けるでしょう。全く話にもならない非礼千万な、こんな人が大本の総長かと信徒として全く恥ずかしい限りです。殊に四代直美様に対し「大本教則第一三三条の懲戒行為に該当する疑いがあるから審議委員会に於て今後審議する。何か言い分があれば当年(昭和六〇年)二月五日までに文書をもって提出をせよ」と何と一片の非礼極まる通達が来ました。全く神をも虞(おそ)れない言語道断な、信徒として出来る行為ではありません。
 こんな倫理、道徳を無視した非礼な行為がいつまでも俺は知らぬ存ぜぬで許されるでしょうか、皆さんどうお思いでしょうか。世間ではこんな事絶対に許されないでしょう。大本は道を明らかにする所です。基本宣伝歌の示される如く真実を明確にすべきでしょう。
 信徒の皆さん、真実に従い、力を合わせて教団の改革に立ち上がりましょう。みろくの世のよい「型」を出しましょう。

決して教主様−無答責−を訴えているのではない −世間の一般常識−
−訴えているのは森清秀等当時の執行部―

 ところで昭和五六年末頃からこの裁判について、出口栄二先生が義母に当る教主様を訴えた極悪非道の人間であるかのような宣伝が始まりましたが、栄二先生の今度の訴えは教団の管理運営、人事などの責任者である当時の執行部、その代表者である森清秀氏らを被告としてその責任を問うているのです。(法律上執行部の行為は教団の行為とされますので、形式上教団が相手方となりますが実質上の相手は執行部なのです)従って教主様が被告とされているのではありません。そもそも教団の管理・運営・人事などについては教則に「教主は無答責」とされてあり、このことからみても教主様を訴えたなどというのは誤りであることは明白でしょう。一般信徒にこのような法律の知識がないことをよいことに、栄二先生を誹謗(ひぼう)するもっともらしい悪意の宣伝がなされていることは誠に遺憾です。常識的にこんな事が理解できないようでは世間から笑われます。
安川のまし水なせるみ裁きを
     忘れざるべし千代に伝えむ
(昭和17年11月20日 聖師様、大阪の未決よりお帰りになっての御歌)
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神定四代の証

 直美様は昭和二〇年四月に御結婚されその年の秋、綾部の寺村にある山水荘で聖師様、二代様と御一緒の生活を送られました。
 翌昭和二一年四月、聖師様は直美様を呼ばれ、御手づから四代の証として三冊の道歌集等を渡されました。

昭和二十一年四月
四代に与ふ
王仁

執拗に、大島豊、教主様に栄二先生ひ免を迫る
−歴史は繰り返すのか−

第二次大本事件控訴審
出口王仁三郎氏法廷筆記(全)

昭和十六年一月二十三日木曜日
出口王仁三郎控訴公判第七回

問(裁判長)「大島豊ナドガソレデオ前ノ隠退ヲ迫ツタノデナイカ」
答(王仁三郎聖師)「大島ガ 奉書二書イテ『アンタノ遣方ハヌリクタイカラ日出麿サント代レ』卜云フテ来マシタ…」
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 昭和七年頃聖師様排撃の首謀者だった大島豊は昭和三七年九月六日、出口栄二先生が総長辞任の約一ヶ月前に東京からわざわざ来亀して教主様に面会し、「栄二先生の先般のソ連訪中(昭37年7/1〜8/1)したことにより東京公安庁が創価学会を調査し、次に大本を調べるべく動いている。この際涙をふるって馬しょくを切るように」と進言。「これで栄二総長の辞任となったのだ。教主はそうではないと言われているが」と後に昭和四一年五月一四日、東筑紫学園創立三〇周年のとき、当時史実課勤務の徳重高嶺氏に自ら語った。(徳重氏は当時小倉日活ホテルの便箋にこれを記録。この度裁判資料として提出された。)
※第二部はPDF版のみに収録
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