Skip to content

任侠になる

 喜三郎の父・吉松(よしまつ)は明治30(1897)年、53才で亡くなりました。
 親類の人たちなどが「それは艮の隅にある椋(むく)の木を切った鬼門(きもん)のたたりだ」というので、喜三郎はたたりなど信じませんでしたが、易者に見てもらったり、妙霊教会など2~3の教会を訪れて相談したりしました。
 ですが一向に要領を得ません。

 そこで産土(うぶすな)の神さまに直々に教えを乞うことにしました。
 小幡(おばた)神社の社前に毎夜12時から午前3時まで、真剣に祈願を凝らしました。

 するとちょうど37日の上がりの日に、神は喜三郎の熱意に応えられ、教えを垂れさせ給うたのです。
 それは艮(うしとら)と坤(ひつじさる)の鬼門の金神の由来、宇宙の真相や神と人との関係を説いた根本教義であり、後に大本三大学則などとして結実しました。

 このことで喜三郎は大いに勇気づけられました。
 そしてさらに、自ら進んで他宗の教義を探り、堕落した宗教を改革しようと思い、他宗の教会を訪れて神示の教えを説いて回りましたが、門前払いや大反対や山子呼ばわりをされただけでした。
 その中で宗教家の偽善と堕落を知り、喜三郎は失望したのです。

 この宗教に対する失望から、喜三郎は社会的弱者を救い強者を挫く侠客を志願して、ケンカの仲裁を買ってでたりしました。
 喜三郎の父の死後わずか半年ほどの間に9回も、土地の侠客と衝突してケンカをしました。

 その9回目ととき、喜三郎はそれまでの自分の行動を反省しました。
 任侠とか人助けとかいっても、それは一方に喜ぶ人があっても他方には大きな恨みを残すことになっていたのです。
 ここに喜三郎は転迷開悟しました。

 このケンカの翌日、富士山の木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の神使(しんし)・松岡芙蓉仙人(まつおかふようせんにん)と名乗る天使の導きで、喜三郎は近くの霊山・高熊山(たかくまやま)に入りました。
 明治31年(1898年)3月1日(旧2月9日)、喜三郎27歳のときのことです。
 この日から始まった一週間の霊山修業は、喜三郎の人生に大転回をもたらしました。
 これ以後の喜三郎の人生は、宗教家としての人類救済の神業の大きく歩みだすものになったのです。
© 1998-2024 大本信徒連合会