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牛乳屋さんになる

 上田家はもとは豊かな農家でしたが、喜三郎が生まれた頃には先祖の残した良田も人手にわたり、家屋敷とわずかな土地があるだけの小作農になっていました。
 貧富の差が激しかった当時の農村社会では、貧しい小作農家に対しては差別といじめが当然のようになされていました。喜三郎は幼少の頃よりこの差別に会い、心を痛めていました。
 12~3才の頃を回想した歌に、次のようなものがあります。

君が家(や)の田はどこにあるかと尋ねられわれは黙してこたへざりけり
農事よりほかに所作なき小作人のゆくすゑ思ひて涙にくれたる
手も足ものばしようなき小百姓の家の子われは世をはかなみにける
地主らは父の名までも呼びすてに奴僕(ぬぼく)のごとくあつかふを憤(いか)りぬ

 喜三郎は小作人の苦しみからいかに逃れるかを幼心にも思い悩みました。
 一方、喜三郎は地主の横柄な態度に憤りを感じ、これを挫(くじ)かんとして富農の家を毎夜おとずれて夜の更けるまで話し合ったこともありました。

 小学校を退職してからは富農の家僕となったり、醤油売りをしたり、また荷車を引いて京都まで野菜などを売りに通ったこともありました。農村社会の底辺で大変な苦労をしました。

 喜三郎が22才になった明治26(1893)年、獣医学を勉強するため園部(そのべ)の従兄のもとに住み込むことになりました。そこで搾乳、牛乳の配達、飼料の草刈り、牛の世話など牧場の労働一切をさせられました。
 しかし殺生のともなう獣医学は喜三郎には合わず、日清戦争の始まった明治27年、獣医学の研究を止めて、牧畜を生業にする決心をしました。

 約2年ほどの園部時代の収穫は、解剖学や薬学の勉強だけでなく、岡田惟平(おかだ これひら)という国学の良い先生に恵まれて、古事記やその他の古典を学び、さらに和歌なども学ぶことが出来たのです。
 惟平は宮中のお歌所の寄人を勤めたことのある歌人だったので、喜三郎は彼からの影響で和歌を学ぶようになりました。
 惟平は毎月歌会を催しましたが、喜三郎は毎月かならず出席しました。

 またこの園部時代に、喜三郎は本をむさぼり読みました。常に本を離さず、枕元にはたくさんの本を置いていました。
 惟平の住む南陽寺にはかなりの蔵書があり、彼はそこで「古事記」などの古典や国文学書、医学書などを読みました。この頃の旺盛な読書欲・知識欲が後年の王仁三郎聖師の博覧強記の学識の基礎を築いたといえるでしょう。

 園部を去り、穴太(あなお)に帰ってきた喜三郎は、知人と共同で牛乳販売をする精乳館を設立しました。
 そこで喜三郎は牧牛から搾乳、配達、経営をほとんど一手に引き受けました。
 農村における牛乳販売事業は、当時まったく新しい事業だったため、人気を博し、成功を収めました。
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