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出口なお開祖の昇天

 大正7年(1918年)11月6日、大本開祖・出口なおは安らかに昇天しました。81歳でした。

 その後を継ぐ二代教主は、なおの末娘の澄子であると、すでに筆先の神示で決められていました。
 また大本は代々女が継いでいくことも、筆先で指示されています。

 王仁三郎は教主輔として大本の活動を取り仕切りました。
 三代以降の教主補は「補」という文字を使いますが、王仁三郎のみが「輔」という文字を使うのは、王仁三郎が別格であり、なお開祖と並ぶ教祖の地位にあるからです。

 王仁三郎は大々的な宣教活動を展開しました。
 機関誌『神霊界』で大本神諭を初めて世間に発表し、それ以外にも機関誌紙、単行本、パンフレットなど文書宣教を活発に繰り広げ、神の教えを天下に伝えました。

 大正8年には、亀岡にある、明智光秀の居城だった亀山城址を買収して、宣教の拠点にしました。ここは後に天恩郷(てんおんきょう)と命名され、本部が置かれました。

 翌年には、当時経営が傾いていた大阪の大正日日新聞を買収して、大本の新聞として発刊しました。
 大本の主張を天下に伝え、社会の革正をうながすため、大本神諭の予言や警告、立替え立直しの主張を真っ向から取り上げ、社会の不正に対して激しく攻撃的な論陣を張りました。
 当時、一宗教団体が時事を論評する日刊新聞を発行するということは前例がなく、世人を驚かしました。
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