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二度目の弾圧

 昭和10年(1935年)12月8日、早朝4時。
 綾部と亀岡の大本の神苑は武装した警官隊によって包囲されました。その数は合わせて500人以上もの大部隊です。
 腕に白布を巻き、白たすきを斜めにかけ、決死の覚悟で神苑内に突入した警官隊は、三代教主補・出口日出麿(37歳)を始め幹部信者を次々と拘束し、警察署に連れていきました。留置された人の数は綾部・亀岡合わせておよそ300人にものぼります。
 三代教主・出口直日(33歳)はその子供たちと共に軟禁されました。

 出口王仁三郎聖師(64歳)と二代教主・出口澄子(52歳)は、その日、島根県松江の島根別院に滞在していました。
 ここにも300人近い警官隊が、水盃を交わした上で中へ踏み込み、王仁三郎を連行していきました。

 警官隊は、大本が銃器や爆弾で武装しているものと考え、死を覚悟して挑んだようですが、しかし実際には大本にはそんなものはなく、たいした抵抗もなく、拘引や家宅捜索が進んでいったのです。

 近代日本史上類例をみない大規模な宗教弾圧といわれる第二次大本事件は、内務省の唐沢俊樹・警保局長の指揮の下、閣議決定を得た上で決行されたものです。
 捜索箇所は全国の大本の施設・信者の自宅などに及び、取り調べを受けた人は実に3000人以上、検挙された人は987人で、そのうち起訴(不敬罪や治安維持法違反)されたのは王仁三郎、澄子、日出麿を始め61人にものぼります。

 第一次事件のときは、当局は3カ月間、報道規制を敷きましたが、今回は規制はなく、事件当日から新聞は号外を出して、大本弾圧を大々的に報道しました。その論調は第一次事件のときをはるかに上回る厳しいものでした。
 大本は「邪教」「妖教」「怪教」であり、「日本人として許しえぬ不敬不逞の国賊の団体」「国体変革を企図せる陰謀団体」と決め付け、王仁三郎は「国賊」「逆賊」で、「名うての色魔」「詐欺師」「怪物」だと罵り、治安維持法を適用して「死刑もしくは無期懲役」で断罪するのは当然で、日本から根本的に抹殺すべきだと攻撃したのです。
 この反論を許さぬ一方的な報道により、大本信者は大人だけでなく子供までもが、社会から非難と差別の目で見られるようになってしまったのです。

 翌年3月、当局は大本と関連団体に対し、団体解散命令と、建造物破却の命令を下しました。これにより以後は大本の活動は一切禁止され、施設・建物は徹底的に破壊されることになったのです。
 唐沢・警保局長は「大本を完全に地上から葬り去るまで徹底的にやる」と明言しました。
 綾部・亀岡の神苑内の建物240余棟を始め、全国およそ70カ所の別院・分院・分社の建物、そして王仁三郎の歌碑40カ所などが、あっという間に地上から消されていったのです。
 その対象はお墓や納骨堂などにも及び、また書画や陶器、家具、書籍、雑誌など、ありとあらゆるものが押収されて焼却されたり売却されたりしてしまったのです。

 亀岡の天恩郷には月宮殿という、石と鉄筋で造られた神殿がありましたが、1500発以上のダイナマイトを使って3週間もかかって粉々に破壊されました。
 揚句の果てには、綾部と亀岡の神苑の敷地を当局が勝手に地元自治体に売却してしまい、こうして大本は地上から葬り去られてしまったのです。
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