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出口王仁三郎の昇天

 昭和21年(1946年)2月7日、大本は「愛善苑」(あいぜんえん)として新しく生まれ変わり、提唱者である出口王仁三郎が苑主にとなりました。

 愛善苑は発足にあたり、万教同根(ばんきょうどうこん)であることを主張し、すべての宗教はともに語り、ともにきわめ、相たずさえて宗教としての共通使命を達成すべきであるとの立場を声明しました。
 その趣旨に共鳴した宗教人が次々と来苑し、平和について語り合いました。

 破壊された綾部・亀岡の両聖地も、再建に向けて物資の不足する中、信徒の奉仕によって懸命にすすめられていきました。

 翌22年5月3日、戦争の放棄をうたった新しい日本国憲法が施行され、日本も愛善苑もこれから大きく飛躍していこうとしているさなかに、王仁三郎は昇天したのです。

 21年夏頃から病床に伏すようになった王仁三郎は、23年1月19日、亀岡で76年間の生涯を終えたのでした。
 聖雄とたたえられ、あらゆる迫害と厄難を苦とせず、救世の神業を一身ににない、大救世主、大導師と仰がれた王仁三郎聖師の聖霊は、神界に帰られたのでした。

 夫人の澄子は身なりをととのえて枕頭に両手をつき、「先生、まことに永い間ご苦労さまでした。お礼を申し上げます。これからは私はあなたのあとを継いで、立派にやらしていただきます。どうぞ、ご安心下さいませ」と、静かに別れのあいさつを告げました。

 王仁三郎昇天の知らせは全国の信者に大きな衝撃を与えました。

 後日、澄子は二代苑主に就任する際に次のように述べています。
「聖師さまのご昇天は、いくら悲しんでも、悔んでも、つきるものではありませんし、人間の情としては無理からぬことでございます。しかしながら、神さまを中心として考えさせていただきますならば、聖師さまはお亡くなりになったのではなく、神界へお還りになったのでございます。現界のご用を立派におつとめになり、すべてのご準備を滞りなくお済ませになったからこそ、神界にお上りなさったとわたくしは感じさせていただいております。」

 亀岡で10日間にわたる通夜の後、柩をお墓がある綾部に移動させることになりました。
 自動車で綾部に移動させることを検討しましたが、当時の木炭車(ガソリンがなかったので木炭のガスでエンジンを動かしていました)では雪の峠は通行が困難であることがわかったので、特別の霊柩車をつくり信者の手で曳いて移動することになりました。

 およそ60キロもの丹波高原を、真冬に徒歩で歩いていくことは容易ではありません。
 1月30日午前1時、大勢の信者に囲まれた霊柩車の隊列は天恩郷を出発しました。
 柩にお伴してついていく数百人の信者の中には60歳70歳のお年寄りもいますが、峠の難所にさしかかっても隊列から去ろうとはしませんでした。

 どこからともなくわき上がった「三千世界の救世主」という宣伝歌の合唱で心を励ましながら、王仁三郎聖師の柩は雪の山道を進んでいったのです。
 綾部に到着し、ご神前に安置されたのは、その日の夕方5時のことでした。
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