Skip to content

出口澄子の時代

 昭和23年(1948年)1月19日、愛善苑主・出口王仁三郎聖師の昇天の後、夫人の澄子(64歳)が二代苑主を引き継ぎました。
 道統の継承者が澄子であることは、すでに明治時代の出口なお開祖の筆先(神示)に、
「なおのお世継(よつぎ)は末子のお澄どのであるぞよ」(明治32年旧6月10日)
 と示されており、神さまによって指名されていたことでした。

 澄子の「みたま」は「金勝要(きんかつかね)の神」であり、それは大地の金神であると筆先に示されています。
 常に明るい性格で広い心で世の人をいたわり、信徒から「大地の母」と呼ばれて慕われました。

 お土のご恩を説かれ、王仁三郎聖師の時代から行なわれてきた食糧の増産・自給運動をさらに押し進めていきました。
 昭和23年2月に「愛善みずほ会」を設立し、運動を信徒の間だけでなく、全国民的な運動として展開していったのです。

 また翌24年には、人類愛善会を再発足させ、世界連邦運動を強く押し進めていきました。
 世界連邦運動は、第二次大戦の反省から、戦争をなくすために、国際連合よりも強力な機関として世界連邦をつくっていこうという運動です。
 世界各国の文化人・科学者などが参加して、昭和21年にルクセンブルクで設立されました。
 日本でも昭和23年8月に「世界連邦建設同盟」が結成され、澄子苑主はこの運動に賛同し、推進していくことに決めたのです。

 米ソの対決が深刻化し、朝鮮戦争が勃発(昭和25年)する中、『人類愛善新聞』を市民に頒布して、世界平和の確立を訴えました。
 澄子自身も新聞を抱えて街頭に立ち、また家々を訪問して、それを実践したのです。
 その努力が実を結び、綾部市が日本で一番早く世界連邦都市宣言を行ないました。

 昭和24年8月に王仁三郎聖師の耀琓(ようわん)展を大阪で開きました。
 このとき美術に高い見識を持つ人たちも多数来場し、耀琓の素晴らしさが絶賛されました。
 これを皮切りに日本各地で耀琓展が開催され、これにより聖師の耀琓が一躍世間に知られるようになったのです。

 第二次大本事件で大本の教団組織は消滅してしまいましたが、澄子の指導のもと教団あげての奮闘の結果、昭和27年(1952年)には信徒数が6万人以上にまで成長していました。
 この年は明治25年の開教から60年目にあたる佳き記念の年です。信徒の信仰が燃え上がる中、3月31日の朝、澄子は静かに昇天しました。69歳でした。

 その2日前に詠んだ歌が、辞世の句になりました。

「八百八光(はっぴゃくやこう)のほととぎす 声はすれどもすがたはみへぬ 金勝要(きんかつかね)の神は かげからまもりてをる」

 肉体を離れても神界から守りつづけているという、心強いメッセージを感じとることができます。
© 1998-2024 大本信徒連合会