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王仁三郎との出会い

 なおは糸引きやクズ買いなどの仕事をしながら、人助けの病気治しをしました。なおに拝んでもらうと不思議に難病もよく治るのです。
 また明治26年の春から「カラ(唐)と日本のいくさがあるぞよ」と日清戦争(明治27~28年)の予言をしており、なおの言葉がよくあたるので、それまでなおを馬鹿にしていた村人たちも、次第になおを尊敬と驚きの目で見るようになっていきました。
 そうして「綾部の金神さん」と呼ばれるようになり、農村部を中心に信者が増えていったのです。

 初めは金光教の神さまと一緒に艮の金神を祀っていましたが、その後、独立した広前(神さまを祀る布教所)を開きました。
 信者は集まってきますが、しかしこの金神さんの真の力になる人物はいません。
 そんなある日、
 「この神を判(わ)けるお方は東から来るぞよ」
 という筆先が出たのです。

 明治31年(1898年)10月、風変わりな格好をした青年が、綾部のなおの元にやってきました。
 陣羽織を羽織り、手にコウモリ傘とバスケットを持ち、歯にはお歯黒…。
 彼は上田喜三郎と名のりました。綾部の東の方、亀岡からやってきたこの青年は、神の正体を判定する審神者(さにわ)をしていました。
 彼こそが後に大本を担うことになる出口王仁三郎聖師なのです。
 これがなおと王仁三郎の初対面でした。
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