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悪く言われて良くなる仕組

 第一次大本事件で検挙され起訴されたのは、出口王仁三郎、浅野和三郎、吉田祐定の3人です。

 事件が起きた2月12日、出口王仁三郎は大阪・梅田の大正日日新聞社で陣頭指揮をとっていました。
 そこへ刑事が踏み込み、連行されていきました。

 王仁三郎はこの日が来ることを事前に予知しており、一年前の節分の日に幹部に、来年の節分の後間もなく、ある誤解のために引っ張られることがあると漏らしていました。
 また、事件の前夜、夜遅くまで大正日日新聞社の若者たちと談笑し、それとなく別れを告げていました。

 英文学者として知られていた浅野和三郎は、機関誌『神霊界』主筆、大日本修斎会会長、大正日日新聞社社長などを歴任した大本の大幹部です。
 また吉田祐定は名義上『神霊界』の発行・編集・印刷人だったため検挙されました。

 5月11日、当局によりそれまで禁止されていた大本事件の報道が解禁となり、新聞各社は一斉に大本攻撃の報道を開始しました。その背後には、マスコミを総動員して大本を叩き、信者の脱落や内紛を促進して教団を内部から切り崩し、と同時に社会からの孤立化をはかろうとする、当局の思惑がうごめいていました。

「戦慄すべき国賊大本教の罪悪」「天皇陛下の統治権を無視す」「あばかれたる綾部 驚くべき伏魔殿の大秘密」「悪魔の如き王仁三郎」「教祖のおなお婆さん 元は紙くず買いの気狂婆」「銃砲刀剣等荷馬車に十台」「本山に積まれた銀貨二百万円」「命がけで地下の秘密室を探る 動かぬ黒い影は死人か?」「秘密の漏洩を恐れて片っ端から惨殺 死屍を埋むる十一箇所」………………
 新聞の紙面は大本の内情暴露記事で埋め尽くされたのです。

 新聞の攻撃は以前からありましたが、しかしこの弾圧を境として様相が一変し、大本を国賊と決め付け、その存在を許さぬとまで詰め寄るのでした。
 こうして世人の脳裏に「邪教大本」というイメージが深く刻み込まれていったのです。

 大本弾圧は信者に動揺を与えましたが、しかし教団が瓦解するほどの動揺ではありませんでした。
 それは事件のことが、大本神諭でそれとなく予告されていたからです。

「三年さきなりたらよほど気をつけて下さらぬとドエライ悪魔が魅(み)を入れるぞよ。辛の酉(大正10年が辛酉─かのととり─の年にあたる)は、変性女子(王仁三郎のこと)に取りては、後にも前にもないような変りた事ができてくるから、前に気をつけておくぞよ」
 これは大正7年に降りて翌8年1月号の機関誌で発表された神諭です。

 また明治33年には、
「艮の金神の教が拡まるだけ、世界は騒ぎ出すぞよ。何も訳も知らずに方々の新聞が悪く申して、体主霊従のやり方で邪魔を致すようになるから……」
「この大本は世間から悪く言われて、後で良くなる神界の経綸(しぐみ)であるぞよ」
 という神示が出ています。

 この、「悪く言われて良くなる仕組」という教えが信者の腹に叩き込まれていたので、この弾圧事件も神のお仕組であると受け止めたのです。
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