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第1巻 第4篇 竜宮占領戦

第1巻 第4篇 竜宮占領戦

第31章 九山八海 P174

 大八洲彦命おほやしまひこのみことは第1巻に何度も登場しますが、素盞嗚尊すさのをのみこと和魂にぎみたまで、後に月照彦神つきてるひこのかみと名前が変わります(第3巻第43章P254、第5巻第18章P105)。

 神様は色々なお働きによって名前が変わります。沢山の神名があるように思いますが、元々は天の御三体の大神様(天地創造の造化三神)から、全ての神々、人間、森羅万象が生まれています。このような神観を持った民族は世界中を探してもほとんどありません。

 以前アラブに行ったことがありますが、アラー一色です。あとは神の“羊”である人間と、それ以下の動物、植物です。神と人間とが隔絶した世界観です。

 日本はよく八百万の神の国と言いますが、その言い方は本当は間違いです。いつの間にか八百万の神の世界にさせられてしまっていますが、本当は宇宙創造神を私たちは信仰していました。天の御三体の大神とは造化三神のことですが、造化とは宇宙万物を造ったということです。造化三神が分身分霊に魂を分かち与えて万物を形成されました。こういう神観はとてもすごいと私は思います。こういう神の観念を持てば、世界中に争いがなくなると思います。

 大八洲彦命が月照彦になって地上界に降りて来られた時は、インドの地にお釈迦様としてお生まれになりました。奇想天外な話のようですが、読み進めていくと、全部つながって、整合的であることがわかります。

 霊界物語の勉強を始めますと、色々な疑問難問が出てきます。ところが王仁三郎聖師は最後まで霊界物語を読んでから質問しなさいと言っております。

 霊界物語はとても長い話ですが、色々な場面を想定して表現をしてあり、まるっきり反対のことを言ってみたりしながら、最後には大きな川の中へと導かれて行きます。

 一つの章の中だけを見ていると、矛盾したように書いてあるように思ってしまいますが、最後まで読んで行くと、大きな川から大海へと流れ出して行くように構成されているのです。

 大八洲彦命は素盞嗚尊の和魂ですが、四魂しこんといって、荒魂あらみたま奇魂くしみたま幸魂さちみたま和魂にぎみたまの四つあります(第13巻総説参照)。

 人間にはみな神から一霊いちれい四魂しこんが与えられていますが、四魂には順序があり、まず荒魂が最初に出てきます。

 次に奇魂、幸魂、和魂という順序で出てきます。

 生まれて3歳くらいまでは荒魂だけ。やがて知恵が付き、奇魂が働くようになります。これが6歳くらい。9歳くらいになると、幸魂が働くようになり、弟や妹と遊んだり、お母さんを助けるようになる。12歳くらいになると弟や妹が悪さをしても許すことができるようになってきます。和魂が働いて、慈悲の心が芽生えて来ます。精神性が高くなって来ます。

 人間はこれを3回繰り返し、36歳くらいになると、四魂がきちんと育った姿になってきます。

 その歳になってもう少し頑張っておけばよかったとか反省するわけですが、こういう霊的な成長の過程を人間は知らず知らずのうちに歩んでいるのです。

 この働きを司るのが大八洲彦命、即ち素盞嗚尊様の和魂の活動なのです。

第32章 三個の宝珠 P179

 三つの宝玉は木花姫命このはなひめのみこと大八洲彦命おほやしまひこのみことに与えました。

 木花姫命は富士の神霊となっておられますが、木花姫のイメージとして、何の花を思い浮かべるでしょうか? ほとんどの人が「桜」をイメージすると思いますが、実は「梅」です。

 大本神諭にはっきり書いてあります。「日の本の国の花は梅、桜は仏事」「開いて散りて実を結ぶ」

 木の花(このはな)は本来は「兄の花(このはな)」と書きます。

 桜は目で見て分かりますが、梅は香りです。人も梅の心になれ、見て美しいだけではダメ。すぐ開いて散ってしまう。梅はかぐわしい。寒気を凌いで咲く。散っても実を結ぶ。このような人生を歩めと言います。

 木花姫とは、天の御三体の大神の別名です。三十三相に身を変える働きをします。木花姫の化身は沢山出て来ます。神さまは色々な体に化身し、我々にメッセージを送ります。木花姫の御分霊を木花咲耶姫と申し上げます。

 真澄ますみたま潮満しおみつの珠、潮干しおひるの珠が出て来ますが、これらは形ある物ではありません。真澄の鏡だとか、真澄の剣、真澄の珠などと、鏡や剣、珠になぞられますが、全部「言霊ことたま」のことです。

 真澄の剣は、言霊の剣、ということです。私たちの舌は「天の瓊矛(あまのぬほこ)」(北斗七星)と言います。諸刃の剣で、人を殺すことも生かすことも出来ます。

 「あの人のあの一言が許せない」ということがあります。また反対に「あの人の一つの言葉で私は救われた」ということもあります。言葉の使いようで、地獄にも天国にもなるのです。

 言葉は万物を造られました。聖書のヨハネ伝に「初めに言葉あり」と書いてありますが、言葉によって万物は形成されました。

 霊界物語を私たちはただの一冊の小説か、昔の物語かと思って読みますが、しかしだんだん神の言葉だと思うようになると、自分の姿勢が変化して来ます。頭で読んで理解できないことが、ある日突然、鍵が開いたように気付かしてもらう。神さまが自分の体の中に入られて、理解できなかったところが明確になって来ます。

 霊界物語は不思議な神書で、あまり頭で理解しようと思ってもダメです。その人にとって理解できる「時期」が来ます。時が満ちて鍵が開く。

 たとえば第15巻第21章は「帰顕」という題名ですが、ここには21世紀のことが書いてあります。21世紀初めのことが80数年前に書かれているのです。

 松彦『昔のやうに今日の時代は、毛筆や、鉛筆や、万年筆などの必要はありませぬ。ただ指先を以て空中に七十五声の文字を記せば、配達夫は直ちに配達して呉れますよ。私が一つ手本を見せませう。この交通機関は廿一世紀の初期から開始されたのですよ』
 と右の指を以て空中に七十五声の片仮名を綴りて、一つの語を作り、
 『サア、これで手紙が書けました。文字が言語を発する時代となつて来ました』
 と言つて笑つてゐる。

 80年前の人がここを読んでも、その時は何も判りません。また王仁さんが大ホラ吹いて訳の判らぬことを書いているとみんな思ってました。

 今の人たちはこの文章を読んだら、色々なことを連想します。時が来て、鍵を開け、一見荒唐無稽のようでも、その時代に判らないことが沢山あります。王仁三郎聖師はこの当時、誰にも理解されませんでした。周りの人たちにも、理解できないのですから、50年後100年後の人に理解されればいい。100年後の人たちに判るように書くことは大変です。

第35章 一輪の秘密 P188

 三五章は「三」と「五」、「いづ」(厳、五)と「みづ」(瑞、三)のことです。次の三六章は「みろく」のことで、この第35章と第36章には大事なことが書かれてあります。

 稚姫君命わかひめぎみのみことは開祖(出口なお)、大八洲彦命おほやしまひこのみことは聖師(出口王仁三郎)、金勝要神きんかつかねのかみは二代教主(出口澄子)のことをあらわしています。

 潮満しおみつの珠は豊玉姫神とよたまひめのかみになり、潮干しおひるの珠は玉依姫神たまよりひめのかみになりましたが(P190)、この二人は竜宮の神さまのことです。

 豊玉姫は九州の豊玉神社、玉依姫は京都の下賀茂神社の祭神です。

 厳の働きをする潮満の豊玉姫は男性、瑞の働きをする潮干の玉依姫は女性、真澄の珠が造化三神となります。

 この三つの御魂みたまが「世界改造のため大神の御使用になるうづの御宝である。しかしてこれを使用さるる御神業がすなわち一輪の秘密である」(P191)と書いてあります。

 一輪の秘密は、厳の御魂、瑞の御魂が霊体合一した時、本当の真澄の珠が生まれます。

 世の中の形勢はどうなって、我々はどのような位置に存在するか、今から残された人生をどのように生きるべきか──生業せいぎょう(肉体的な仕事)だけでなく、人としての天職(霊的な仕事)を尽くし、霊的人生を開くことで、修羅の世界から、天国の世界へ導く扉が開かれます。それを実践して行くことが、一輪の秘密です。

 この一輪の秘密を生きる道を歩むには、何よりも第一に、身魂みたまを磨き、綺麗にして行かないと、なかなかこういう生き方は出来ません。他と争わない。

 老子の教えに「上善じょうぜんは水の如し」というのがあります。善にも上中下とあり、高い善は水のようなものです。水はすべてのもとの争わず、妨害があったら横を通り、高きから低きに水は流れます。そして低い所に止まると万物を制す。すべてのものを生かす。だから水が止まって溜まったら、鳥も動物も草も木も我々人も、水の力によって生命を繋ぐことも癒すことも出来るのです。

第36章 一輪の仕組 P192

 シナイ山が出て来ますが、シナイ山の雛形は舞鶴と綾部の境にある弥仙山みせんざんです。出口なお開祖もこの山に籠もって修行されました。

 この山の御神霊をお迎えに行ったのですが、綾部には神さまをお祭りする社がありませんでした。

 開祖は屑買いをされ、自分の住む家もありませんでした。出稼ぎ先で一宿一飯をお頼み申して、自分の子供たち全部を丁稚奉公に出して、貧窮生活をなされていました。

 開祖はミカン箱の中に神さまをお迎えしてお祭りしていました。借金だらけで、どうしてもお祭りする所がないので、弥仙山の頂上に仮奉斎して、その後再びお迎えになります。

 体と霊──人間界はどうしても宝玉とか、形のある方へ行ってしまいます。形ではいざという時には何も力を発揮できず、効力がありません。それは肝心の魂が抜けているからです。何かあった時に、神の言葉を唱えなさいといっても、言葉だけでは何の効力もありません。そこに魂が籠もるから言霊(言魂)と言うのです。

 言葉と言霊とは違います。言葉はコミュニケーションをとるもの。言霊というのは、言葉に魂が籠もるから、力が付く。霊が抜かれたら言葉は表面的なものです。

 気もないのに表面上、礼を言っても通じない。魂を籠めるから、相手を心から喜ばすことが出来る。

 三つの御魂の神格をお迎えする──形だけお迎えしても効力はありません。霊と体が合一して初めて効力が出ます。

 相手に「この野郎」と罵る時は、言葉に憎悪の霊が付くから、剣のように刺さる。「あの人の恐さは寒気がした」とか経験があると思います。もっと良い想念で、明るい言霊で、人を喜ばす言霊を生み出して行かなくてはいけません。

 魂が抜かれたら、体だけでは何の力も発揮しません。我々の信仰も形だけのものなら、毎日掌を合わして拝んでも、私たちの気持ちに魂が入っていなかったら、形だけでは通じない、気持ちと魂が統合してなかったら、神の力を生み出せません。
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