当局の大本弾圧は王仁三郎ら幹部の検挙と家宅捜索だけではありませんでした。
裁判の判決が確定しないうちから、大本に対して施設破壊の要求をしてきました。
まず開祖・出口なおの墓を改修せよといってきました。
大正7年に昇天した開祖の墓は、綾部の本部の近くにある天王平というところに、古代形式にならって土饅頭型でつくりました。
事件の前、大正9年に当局は、このお墓の形が伏見桃山陵(明治天皇のお墓)に似ているので不敬だとクレームを付けたのです。
もともと土饅頭型のお墓は民間に伝承され普通に見受けられる形ですし、そもそも伏見桃山陵は上円下方墳なので形が異なることは明白です。
まったく理由にならない理由ですが、当局は何が何でも改築せよと強要し、大本側は仕方なくこれを受け入れて、方形の三段に改築しました。
ところが事件後、当局は再びこの問題を持ち出して、お墓の一部が墓地からはみ出しているから発掘して改葬せよと要求したのです。
また、お墓の後ろに社殿(稚姫神社)があるのは不法だから撤去せよ、従わなければ行政処分を行なうというのです。
信者たちは泣く泣くお墓の改修と神社の撤去を行ないました。
また当局は、本宮山(ほんぐうやま)の山頂の神殿を破壊せよとも命じました。
本宮山は綾部の大本の神苑内にある山です。王仁三郎は、
「丹波は昔全部が湖水であり、本宮山はその水面に頂上だけ出ていた。太古に素盞嗚尊が出雲から出てこられた時、この本宮山の上に母神である伊邪那美尊をお祀りになり熊野神社と名づけられた」
と語っています。素盞嗚尊を救世神とあおぐ大本にとって由緒の深い山です。
この山頂に建てられた神殿が、神明造りに似ているから不敬だというのです。
神明造りとは伊勢神宮の社殿と同じ形式をいいますが、日本中どこでも見られるポピュラーな社殿形式です。なんとも不当ないいがかりです。
また表向きの名目は、社寺は許可なく勝手に建ててはいけないという大蔵省達118号に反するということですが、これは明治憲法制定前の明治5年に出されたもので、法律ではなく、大蔵省からのお達し(通達)という程度のものです。
事件後の大正10年7月に完成したばかりのこの本宮山神殿は、わずか3ヶ月後の10月に破壊されてしまったのです。
警官が厳重に警戒する中、50余人の作業員により神殿の破壊作業が進められていきました。
当時19歳の三代教主・出口直日は次の歌を詠みました。
神殿は壊れても信者の信仰は壊れることなく、次の時代への準備が進められていったのです。
裁判の判決が確定しないうちから、大本に対して施設破壊の要求をしてきました。
まず開祖・出口なおの墓を改修せよといってきました。
大正7年に昇天した開祖の墓は、綾部の本部の近くにある天王平というところに、古代形式にならって土饅頭型でつくりました。
事件の前、大正9年に当局は、このお墓の形が伏見桃山陵(明治天皇のお墓)に似ているので不敬だとクレームを付けたのです。
もともと土饅頭型のお墓は民間に伝承され普通に見受けられる形ですし、そもそも伏見桃山陵は上円下方墳なので形が異なることは明白です。
まったく理由にならない理由ですが、当局は何が何でも改築せよと強要し、大本側は仕方なくこれを受け入れて、方形の三段に改築しました。
ところが事件後、当局は再びこの問題を持ち出して、お墓の一部が墓地からはみ出しているから発掘して改葬せよと要求したのです。
また、お墓の後ろに社殿(稚姫神社)があるのは不法だから撤去せよ、従わなければ行政処分を行なうというのです。
信者たちは泣く泣くお墓の改修と神社の撤去を行ないました。
また当局は、本宮山(ほんぐうやま)の山頂の神殿を破壊せよとも命じました。
本宮山は綾部の大本の神苑内にある山です。王仁三郎は、
「丹波は昔全部が湖水であり、本宮山はその水面に頂上だけ出ていた。太古に素盞嗚尊が出雲から出てこられた時、この本宮山の上に母神である伊邪那美尊をお祀りになり熊野神社と名づけられた」
と語っています。素盞嗚尊を救世神とあおぐ大本にとって由緒の深い山です。
この山頂に建てられた神殿が、神明造りに似ているから不敬だというのです。
神明造りとは伊勢神宮の社殿と同じ形式をいいますが、日本中どこでも見られるポピュラーな社殿形式です。なんとも不当ないいがかりです。
また表向きの名目は、社寺は許可なく勝手に建ててはいけないという大蔵省達118号に反するということですが、これは明治憲法制定前の明治5年に出されたもので、法律ではなく、大蔵省からのお達し(通達)という程度のものです。
事件後の大正10年7月に完成したばかりのこの本宮山神殿は、わずか3ヶ月後の10月に破壊されてしまったのです。
警官が厳重に警戒する中、50余人の作業員により神殿の破壊作業が進められていきました。
当時19歳の三代教主・出口直日は次の歌を詠みました。
よしやこの神の宮居をこはすとも 胸にいつける宮はこはれじ
神殿は壊れても信者の信仰は壊れることなく、次の時代への準備が進められていったのです。