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賠償請求権の放棄

 第二次大本事件の大審院(現在の最高裁)判決は、終戦(昭和20年8月15日)の直後、9月8日に出されました。
 空襲で大審院は焼失してしまい、国民学校の中に移された法廷で、上告棄却の判決が読み上げられました。
 これは治安維持法違反は無罪、不敬罪は有罪という二審の判決が確定したということを意味しています。(出版法・新聞紙法違反も有罪)

 しかしその後、日本を占領したGHQ(連合軍総司令部)が思想や信教などの自由を制限する法令の撤廃を指令したため、10月17日に大赦により不敬罪は「赦免」となりました。
 これにより大本事件は解決をみたのです。

 出口王仁三郎聖師は事件発生からちょうど10年目の昭和20年12月8日に、綾部にて第二次大本事件解決奉告祭を行ないました。
 この事件は冤罪事件であり、当局の不法な拷問により多数の死傷者が出ています。また神苑の不当な売却や、施設の破壊など、政府当局による違法行為は無数にあります。
 裁判で大本の潔白を晴らすために尽力した弁護人たちは、政府に対して国家賠償を要求することにし、亀岡の王仁三郎宅にて会合を開きました。

 弁護団は、昭和20年当時の金額でおよそ3億円を予定していましたが、これは現在の金額に換算するとおよそ600億円に相当する巨大な金額です。被害を受けた者として、賠償金を請求することは当然の権利でありましょう。
 しかし王仁三郎はその権利を放棄させたのです。

「事件のおかげで大本は戦争に関与できない境遇におかれ、人類の平和に対する発言権を与えられた。これは全く神の恩寵(おんちょう)である。今度の事件は神さまの摂理で、わしはありがたいと思っている。賠償を求めて、敗戦後生活に苦しんでいる国民の膏血(こうけつ)をしぼり取るようなことをしてはならない」

 王仁三郎のこの言葉を聞いた弁護人たちは、「これが本当の宗教家だ」と感激して補償の請求を取りやめることにしたのです。

 しかし、だからといって何もかも放棄したわけではありません。
 どうしても必要なものはとことんまで要求しました。それは綾部・亀岡の聖地の返還です。
 大本は日本の雛形であり、王仁三郎は「聖地がとられていることは、それだけ長く日本がとられることの型になる」と、聖地を早急に取り戻すよう弁護団に指示しました。
 返還訴訟は戦時中から行なわれており、途中で綾部町と亀岡町は土地の一部だけを返還するという形での和解案を持ちかけてきましたが、大本側は、一坪たりとも神の聖地を失うことはできない、と和解を断りました。
 戦後すぐに両町から無条件返還の申し入れがあり、9月に和解が成立しました。
 こうして聖地は一坪も失うことなく戻ってきたのです。
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