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予言と警告

 大正7年(1918年)11月、出口なお開祖の昇天直後に、4年間続いた第一次世界大戦が終結しました。
 大戦後の不況や、大正デモクラシー運動、米騒動など、社会不安が激しくなった時期に、大本は終末予言と大正維新を呼びかけて、めざましい発展を続けました。

 大本神諭の予言は全人類に与えられた、真の神の声です。
 それは厳しく現状を批判した警告であり、また未来を示し、救済の精神につらぬかれた確言でもあります。

 明治26年の春には、
「カラ(唐)と日本のいくさがあるぞよ」
 と日清戦争(明治27~28年)を予言する神示が出ていました。

 明治36年には、
「露国からはじまりて、大たたかいがあると申してあるが、これからだんだんと世が迫りてきて、世界中の大たたかいとなりて、とことんまでゆくと、向こうの国が一つになりて皆攻めて来たおりには、とてもかなわんという人民が、神からみると九分まであるぞよ」
 と日露戦争(明治37~38年)から世界大戦に発展し、やがて日本の敗戦に至ることが予言されています。
「食物はだんだんと欠乏(ひっぱく)になるなり、菜の葉一枚でも大切なことに今になってくるぞよ。百万円の金よりも一握りのお米の方が大切な世がまわりてきて…」
 と具体的なことが示された神示もあります。

 さらに、現状を厳しく批判して、神の救済の経綸が明示されたものもあります。
「国のとりあいばかりで、弱い方がいつも負けて苦しむばかり、天地の神はいつまでも、こんな世界は見殺しにはいたさんぞよ」(大正4年)
「お照しは一体、七王も八王も、王が世界にあれば、この世の口舌(くぜつ)がたえんから、一つの王でおさめる経綸(しぐみ)がいたしてあるぞよ。神が表に現われて、カラも天竺も一つに丸めて、万古末代つづく神国の世にいたすぞよ。世界中そろうて喜ぶように致さねば、神国とは申されんぞよ」(明治26年)

 信者の中には、これらの大本神諭や、瑞能神歌(みづのしんか。王仁三郎の手を通して書かれた予言の神示)に、自己流の解釈を加えて、具体的な時期を示して、予言と警告をことさら強調する者もいました。
 大正日日新聞の社長として論陣を張っていた浅野和三郎(あさの わさぶろう)らは、大正10年に立替えが起きると宣伝しました。
 友清九吾(ともきよ きゅうご)が書いて機関誌に発表した『一葉落ちて知る天下の秋』(大正7年)はその代表的な例です。

「この現状世界が木っ葉に打ち砕かれる時期が眼前に迫りました。それはこの欧州戦争(第一次大戦のこと)に引続いて起る日本対世界の戦争を機会として、いわゆる天災地変も同時に起り、世界の大洗濯が行はれるので、この大洗濯には死すべきものが死し、生くべきものが生くるので、一人のまぐれ死も一人のまぐれ助かりも無いのであります。」

「日本対世界の戦争が何時から始まるかというと、それは今からわずか一、二ケ年経つか経たぬ間に端をひらきます。」

「時期は日に日に刻々と切迫して参りました。モウ抜差しならぬ処まで参りました。眼の醒める人は今のうちに醒めて頂かねばなりませぬ。日の経つのは夢のやうですが、今から一千日ばかりの間にそれらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって、大正十一、二年頃はこの世界は暴風雨の後の様な静かな世になって、生き残った人達が神勅のまにまに新理想世界の経営に着手してる時であります。」

 このような世界の終末予言が、大正日日新聞などを通して、一般市民にも知られるようになりました。
 当時は将来の不安と変革の期待に人心が揺れ動いていた時期だったので、人々の強い興味を惹きつけて、大本が飛躍発展する一因になったのです。
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