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第1巻 第5篇 御玉の争奪

第1巻 第5篇 御玉の争奪

第37章 顕国の御玉 P199

 「顕国うつしくに御玉みたま」は、霊界物語の中に何度も出て来ます。「顕国の宮」とか、色々な呼び名があります。

 顕国というのは「あらわれた国」ということですが、本当の意味は「地球を顕す」ということです。P199の後ろから3行目に「これは国常立尊くにとこたちのみことあめ御柱みはしらの黄金の柱となつて星辰せいしんを生み出し給ひしとき、最初に現はれたる星巌せいがんである」と書いてあります。

 国常立尊は我々が住んでいる大地──地球、地上神界の主宰神です。「国祖」「国の祖神みおや」とも言います。地上神界を主宰している神様ですから、国常立尊がいらっしゃらなければ、すべてのものが狂ってしまいます。

 この世界には正神界と邪神界との二つの領域があります。邪神界によって国祖・国常立尊は隠退を画策されて、ついに隠退をせざるを得なくなってしまいました。

 この国常立尊が天の御柱の黄金の柱となって、星辰をお生みになりました。今の科学から考えると、宇宙の中で地球の存在はとても小さな存在だと思ってしまいますが、本当は神様は地球を中心に宇宙を造られました。地球はすべての根本になります。
 国祖・国常立尊が大地を形成され、星をお生みになった、その時の星巌(星のいわお)を最初の神業かむわざ祈念として地上にとどめて、地上の国魂の守護と定めて、今まで秘め置かれました。高さ50間、幅50間(約91メートル)の方形の極めて堅固なる岩石です。

 この時、天から12の天男、天女が降りて来て、この星巌の回りを舞った。天女の天の羽衣が星巌に擦れて、次第次第に容積を減じ、ついには丸い形になった。しかも3尺の円球になった。

 3尺というのは、1メートルくらいの大きさです。そうなるまでにはすごく長い年月がかかりました。

 P201の前から4行目に「一見するところ、この円き星巌は地球に酷似してゐる」と書いてあります。

 宇宙剖判の話が霊界物語に2種類出て来ます。我々が今いる地上界が形成された話と、神界(幽の世界)が創造された話です。この神界の宇宙剖判は「天祥てんしょう地瑞ちずい」(第73~81巻)に書いてあります。

 その中には、宇宙が創造される時の様子が次のように示されてあります。──天もなく地もなく、ただ大虚空の中に一点のヽ(ほち)が顕れた。その一点のヽから、湯気とも煙ともつかない微細なものが立ちこめて、円の形が形成された。そこからスーという言霊が発生された。その言霊には色が無く、音が無く、形が無い──。(第73巻第1章)

 「スー」と言いましたが、スーと音がしたら、スーではありません。音も形もないのです。

 スーという気が四方八方に伸びきって、その極みに「ウ」という言霊が生まれました。ウの言霊に神名がついて、宇迦須美うがすみの神といいます。物質界の祖神になります。

 この宇迦須美の神様が、スの極み、言霊を宣り上げられました。禊ぎ祓いの言霊を宣り上げられました。一日も休むことがなく──一日休んだらたちまち宇宙が曇ってしまいます。

 それが気が遠くなるほど永遠に続いて、何十億年、何百億年の経過の中で、それがだんだんと物質化して行きました。

 天祥地瑞の世界のことを「紫微しび天界」と言います。これが地球が形成される根元になります。

 第37章の最後に書かれていますが(P201)、金勝要神きんかつかねのかみが顕国の御玉を手に入れて、滝に投げる、そうしたら滝の水に打たれて、玉の光はますます光沢を現した。表は紫で、玉の中は赤、白、青の3つの宝玉が深く包まれているのが、外部から透かし見ることが出来る。しかも金剛不壊ふえ宝珠ほっしゅ──金剛はダイヤモンド、不壊は壊れない──ダイヤモンドのように堅い壊れない宝となりました。これが顕国の御玉です。
 外は紫、中には赤、白、青の3つの宝玉が分かれていました。これを「三つの御魂みたま」といい、つまり神の御神体そのものです。顕国の御玉が神素盞嗚大神かむすさのをのおほかみの御精霊体です。

 これは神代の宇宙剖判の話ですが、幽界(かくりよ、目に見えない世界)の事は必ず顕界、うつに顕れて来ます。

 霊界物語は神界の神代の話ですが、この神代のストーリーは現界に写されて来ます。その雛形として、出口なお大本開祖と出口王仁三郎聖師の二人の出会いから、色々なドラマが生み出されて来ています。それは正しく幽界の出来事が、現界の雛形として写っています。

 天地を創造された神様から私達は分霊わけみたまを戴いています。霊魂には4つの働きがあり、荒魂あらみたま奇魂くしみたま幸魂さちみたま和魂にぎみたま、これを四魂しこんと言います。

 大地の金神とも呼ばれる金勝要神様は四魂に分かれ、荒魂は言霊姫命ことたまひめのみこと、奇魂は竜世姫命たつよひめのみこと、幸魂は真澄姫命ますみひめのみこと、和魂は高照姫命たかてるひめのみことという神名があります。

 北海道(北米)は言霊姫命が守護なさり、本州(ユーラシア大陸)は高照姫命、四国(オーストラリア)は真澄姫命、九州(アフリカ)は純世姫命、台湾(南米)は竜世姫命が守護されます。この五柱合わせて金勝要神といいます。

 大本の雛形の中で、この神様のお役をなさった方は、出口なお開祖の五女の出口澄子で、王仁三郎聖師と夫婦になり、大本の二代教主になられました。

 P201の後ろから7行目に「金勝要神はいかが思召おぼしけむ、この円巌を山頂より安河原やすかはらの渓流めがけて投げ捨てたまうた。急転直下、六合りくがうも割るるばかりの音響を発して谷間に転落した」と書いてあります。この文章だけを読むと分かりにくいのですが、二代教主は霊覚は優れていましたが、自分のご亭主、王仁三郎聖師の事だけはよく分からない。聖師は自分の奥さんから、神業しんぎょうの面ではあまり理解されていませんでした。

 ここの文章にある通り「山頂より安河原の渓流めがけて投げ捨てたまうた」ことによって、王仁三郎聖師は色々な修行をすることになり、そしてますます光沢が輝いて行きます。
 幽と顕、この両極──霊界物語には大本の歴史と、聖師と開祖を中心とした雛形の歴史と、神代の物語が折り重なって出て来ているので、分かりにくい部分もあります。

 顕国の御玉は「三つ御魂」──神素盞嗚大神の御精霊体ということです。顕国の御玉が穢されてしまったら、地球上は大変なことになります。

 第38章「黄金水の精」の中に、黄金水から出た12の玉のことが書かれています。邪神がこの玉を奪おうとして、邪神界と正神界の争いになります。

 これは神代のことだけでなく、我々が今生きている中で、似たことがいっぱいあります。ある面では、霊界物語は「審神さにわ」の書と言えます。私達が日常の生活の中で思いもよらない世界に踏み入れざるを得ない状況があります。色んな出会いの中で、その時に真偽を確かめる、その時の大きな鏡になる霊界物語は、神界の審判の書であり、悪神はどういう手段でやって来るかということが、霊界物語の中に書かれています。

第38章 黄金水の精 P203

 この章には稚姫君命わかひめぎみのみことが出て来ます。前の章は金勝要神きんかつかねのかみが出て来ますが、これは一つの雛形で、出口澄子・二代教主が金勝要神の現界的な「御霊代みひしろ」になります。

 稚姫君命というのは、国祖・国常立尊くにとこたちのみことの神示の媒介者です。それが肉体を持って現れたのが、出口なお・大本開祖です。つまり開祖様の霊が稚姫君命ということになります。

 国祖が隠退された時の名前が「うしとらの金神」ですが、その神霊が稚姫君命の精霊を通して開祖様に懸かり、明治25年の旧正月に「三千世界、一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という国祖の宣言が発せられました。今までずうっと押し込められて、隠退させられた神が、再び地上神界の主宰神として復権したのが、明治25年の旧正月です。

 第38巻の始めに「稚姫君命、金勝要神、大八洲彦命は歓喜のあまり」(P203)と出て来ますが、大八洲彦命は後に月照彦つきてるひこと名前が変わり、インドの釈迦としてお生まれになりました。大八洲彦命は素盞嗚大神の和魂にぎみたまになります。

 稚姫君命、金勝要神、大八洲彦命、この三柱の神さまが、顕国うつしくに御玉みたまを奉安するために新しい御船をつくって、竜宮城にお持ち帰りになります。

 竜宮城は海の中と陸の上、両方にありますが、ここに書いてある竜宮城は「陸(あげ)」の竜宮城で、これは綾部を指します。綾部に顕国の御玉を奉安しました。「この御玉はある尊貴なる神の御精霊体である。」(P203)と書いてありますが、これは素盞嗚大神のことです。

 古事記で理解している素盞嗚のイメージとはいささか異なり、霊界物語では素盞嗚大神は救世神です。顕・神・幽、三界すべての世を救う神です。
 「話はもとへかへつて、高杉別、森鷹彦は大神の命を奉じ、黄金造の器にシオンの滝の清泉を盛り(省略)竜宮城の真奈井に注ぎ入れられた。それよりこの水を黄金水といふ。」(P203)

 大本に「火のご用」と「水のご用」と呼ばれているものがあります。「水のご用」とは、聖師と開祖が揃って丹波の元伊勢へ行き、「産釜うぶがま産盥うぶだらい」の清水をお汲みになって持ち帰り、綾部の井戸に注がれた。二つの竹筒に水を入れて持ち帰った。一つは綾部の井戸に、もう一つは舞鶴沖にある沓島めしま冠島おしま──沓島には国祖の御神霊が封じ込められていました。その手前に冠島があり、冠島と沓島の間の海を「竜宮海」と呼びます。開祖はその竜宮海に残りの水を注ぎ込まれました。

 三年過ぎたら世界中を全部廻る、この神の経綸しぐみが世界中に伝わる──と言って水を注がれました。この水のことを黄金水と言います。真奈井は綾部の井戸のことです。日本海のことも真名井と言います。
 「顕国の御玉の竜宮城に御安着とともに、三方より不思議にも黒煙天に冲して濛々と立ち騰り、竜宮城は今まさに焼け落ちむとする勢ひである。」(P203) 顕国の御玉が綾の聖地に到着したと同時にここから煙が出ました。それも瑞雲(めでたい煙)ではなくて、大変不穏な煙が立ちました。

 聖師が綾部に来られた時、当時の綾部は開祖が信徒たちに絶対的に信頼されていました。56歳でしたが、毎朝水行をされ、冬でも──綾部の冬は厳しく寒いのですが、それでも水を30分間浴びていました。水をザーと浴びるのではなく、柄杓でチョロチョロと浴びるのです。それは、一遍に水を浴びるとかえって体が火照ほてる。だからチョロチョロかけるのです。このように非常に厳格な人柄で、周りから信頼されていました。

 当時の聖師は年がまだ若く、ある面では、どこの馬の骨かわからないような人です。周りは大反対し、聖師を綾部から追放しようという動きが起きてきます。神界のことが現界に写っているのです。
 「顕国の御玉は、時々刻々に光度を増し、一時に数百の太陽の現はれしごとく、神人しんじん皆その光徳の眩ゆさに眼を開く能はず」(P204) 開祖は天照あまてらすの役割、王仁三郎聖師は素盞嗚すさのをの役割と見なされていました。天照は正しい神で、素盞嗚は悪神と思われていました。

 当時の開祖の周辺にいる人たちはみんな熱心だから、開祖の筆先(神示)に忠実に生きようとします。「今は真っ暗がりの世である」という筆先が出ると、当時の信者さんは昼でも提灯をつけて歩いていました。筆先を一言一句守ろうとする──それは尊いことですが、幅の広さがないと誤った方向に行ってしまいます。

 顕国の御玉が綾の聖地に来て、その光がどんどん増して行きました。
 「国常立尊は、神威の赫灼かくしやくたるに驚喜したまひしが、さりとてこのまま竜宮城にあからさまに奉祭することを躊躇したまひ、天運の循環しきたるまで、至堅至牢なる三重みへ金殿きんでん八重畳やへたたみを布き」 その中に顕国の御玉を奉安しました(P204)。

 素盞嗚大神のお働きを封じ込めようとしたところが、封じ込められてなおかつ、三重の金殿の上に光を輝き増して行く。これが顕国の御玉の実体です。
 「天の真奈井の清泉はにはかに金色と変じ、その水の精は、十二個の美しき玉となつて中空に舞ひ上り、種々の色と変じ、ふたたび地上に降下した。」(P205) いろいろな人が争ってこの玉を手に入れました。

 竹熊という邪神の頭目は、顕国の御玉を曇らせて、穢して、使い物にならないようにするために画策します。そこで黄金水から出たこの十二の玉を手に入れようとするのです。そして一つ一つ十二の玉を略奪して行きます。そのことが次の第39章以降に書かれています。
 霊界物語の1~2巻あたりは、神業の地場としての綾部で起きたいろいろな出来事と、神界であった出来事が相交わります。霊界物語の中で、この顕国の御玉というところは大変重要なところです。

第39章 白玉の行衛 P207

第40章 黒玉の行衛 P213

 黄金水から出た十二の玉の中の白い玉は、竹熊一派に略奪されました。その方法は、魔子彦まごひこという「容姿端麗なる美男」(P207)を使って奪い取ります。ところが邪神界の計画は用意周到です。後難を恐れて、魔子彦は霊体共に粉砕してしまうという手口で殺されてしまいます(P212)。

 十二個の玉のうち十個まで、こういう形で奪われてしまいます。すべて手口は違っています。邪神の色々な手口が書かれています。
 黒玉も、白玉とはまた別の戦略で奪われてしまいます。

 「巧妙なる邪神の奸策よ」(P217 後ろから3行目)と書いてありますが、本人がやっているのではなく、その人の霊が肉体を使うわけですから、その人の能力以上に智慧を発揮します。

 続いて次のように書いてあります。

 「いかに善良なる神人かみといへども、心中に一片の執着ある時はかならず邪鬼妖神のために犯さるるものである。慎むべきは一切の物に執着の念を断つべきことである。」(P217) 執着を断つ訓練をしろと、王仁三郎聖師は言っています。

 いつも神さまに自分の心が向くように、日常的に修行させていただくことが大事です。これを「身魂みたま磨き」と言います。

 人として生まれたからには肉体を持っています。体(たい)というのは、どちらかというと「悪」ということです。霊は「善」。

 では体は悪だから要らないかというと、そういうことではありません。霊・体が合一して力が生まれる。陰陽が合一して新しい生命が発する。電球はプラス・マイナスが合一して灯りが点く。悪というのは、喩えです。喩えとして、体は悪というのです。我々は霊と体を持っており、善と悪とのバランスを取る──霊が主になることによって、「霊主体従」となり、悪であるはずの体が、霊主体従の法則によって善の活用をするようになります。

 反対に「体主霊従」になりますと、体に霊が引きずられて行き、善であるはずの霊が悪の作用を始めて行きます。

 我々の住んでいる世界は、霊主体従が本当の真実の姿ですが、人間は肉体を持っていますから体主霊従になりやすいのです。

 どんしん三毒さんどくに穢されることによって、体主霊従になってしまいます。

 貪は私たちの貪る心。物や人への執着。

 瞋は瞋恚しんいで、怒り、闘争心、極端な嫉妬心。瞋恚の情が深くなればなるほど、争いの気持ちが大きくなります。

 痴は二つの意味があり、一つは真理を知らないこと。どんなに一流の大学を出ても、どんなに学識があっても、真の神の言葉を知らない目覚めない人は、神さまの目から見ると、まったく無知なんだそうです。もう一つは言霊の穢れ、愚痴。他の人の悪口ばかりしていると、その世界が現れて来ます。

 お釈迦様が説かれた貪・瞋・痴の三毒の意味を深く理解して、この三毒を消して行くことが、身魂磨きということです。
 人生の目的は名位寿富めい い じゅ ふう──名を得る、位を得る、寿命を得る、富を得る──この名位寿富には、正しい欲と、そうでない欲とがあります。

 私たちは名位寿富を得ようとしたら、どうしてもライバルを蹴落として行かなければなりません。いろいろな方法手段を使って自分が勝ち残って初めて、名を得たり、位を得たり、富を得たりします。そこには争いと執着が生まれて来ます。それらを【みづから】得ようとすると、体主霊従に陥ってしまう。

 「身(み)づから」と「自(おの)づから」の二つの方法があります。私たちの霊性を磨くことによって、その使命に応じて神さまから授けられる、それを「天授」と言います。

 天授の名を得る、天授の位を得る、神さまから寿命を戴き、富を得る、ごく自然に。

 天授の物であれば、感謝の念が生まれます。「ああ神さま、ありがとう、このように私を慈しみ、ありがとうございます」と。これが「自づから」です。

 ところが「身づから」得ると、「私はたいしたもんだ」と思う。これは体主霊従です。

 これを霊主体従に切り替えるのが、神さまの教えです。弱肉強食、優勝劣敗の原理が働く体主霊従は、神さまが一番嫌われることです。

 霊とは神霊、神さまです。神さまの言葉を私たちの魂に染み込ませることによって、体的などんしん三毒さんどくを抑える、消し去ることが出来ます。

 「自づから」神さまから授かるためには、天職に目覚めることが大切です。

 天職とは自分の職業だと思ってしまいますが、そうではありません。天職とは、我々がこの世に肉体を持って神さまから下された本来の使命のことを、天職と言います。私たちの職業のことは生業(せいぎょう、なりわい)と言います。

 ところが今の世の中は生業がすべてだと思っています。これだと弱肉強食、優勝劣敗となる。隣の店はライバルだから潰す、争いが起きる。

 人間が肉体を持ってこの世にいる目的は、この地上界を天国にすることです。まず自分の心の中に天国を打ち立てれば、その人の家庭も天国になって行く。人間関係に争いがなく、天国化して行く。それが広がることが地上天国です。天職に目覚めることで初めて、生業に対する守護がいただけます。
 老子の言葉に「足るを知るは富める」という言葉があります。足りることを知るということは、非常に豊かであるということです。自分の一生で使えないほどの財産を持っていても、もっと欲しいと思う。肥満で国が滅亡しようとしている所もありますが、それでももっと食べたい。他人のものを収奪してでも自分の肉体を満足させたい。これは「足る」ということが判らないのです。

 足ることを知ることで、人としての生き方が覚醒されます。霊主体従の生き方をすると、ここに本当の力が生まれます。体主霊従の生き方は悪の力になります。

 霊主体従の力はすべてを活用して、すべてを生かして行く力に還元されます。私たちもそのような生き方を目指して生きたいと思います。
 この辺りの章は玉取り合戦になり、邪神界がいろいろな手を使って玉を収奪して行きますが、執着があるということが一番、邪神界に惑わされる原因だと、ここで教えられています。

第41章 八尋殿の酒宴(一) P219

第42章 八尋殿の酒宴(二) P225

 竹熊たけくま一派は今度は相手の名誉心や自尊心をくすぐったり見下したりして、玉を出させようとします。その策略に乗ってしまった人は玉を出してしまい、これで十二個の玉のうち七個まで竹熊の手に渡ってしまいました。

 高杉別たかすぎわけは、竹熊の言葉に耳を貸しませんでした。

 玉・剣・鏡──俗にいう三種の神器は、みな形ある物だと思ってしまいます。しかし物体ではなく、玉は人の心、剣は志、鏡は智慧をあらわし、これを智情意ち・じょう・いと言う──と王仁三郎聖師は三種の神器を説明しています。

 玉は丸くないといけない。

 剣は意志。あまり堅すぎても折れやすい。柔らかすぎると使い物にならない。堅からず柔らからず、そういう意志を持たなければならない。

 鏡は智慧ですが、智慧と言っても神さまからいただく神智、それを写すものです。鏡が曇ると神の御心が写らなくなります。ですから自分の心の中にある鏡を磨いて下さい。

 十二の黄金水の玉も人の心を奪って行きます。竹熊は自分の味方に付けて、人の心を奪って行く、その様子がいろいろ書かれています。

第46章 一島の一松 P248

 高杉別たかすぎわけと森鷹彦は竹熊の機先を制して、こちらから玉を献上します。しかしこの玉は偽物で、本物の玉は大八洲彦命おほやしまひこのみことに献上し、大八洲彦命の命を受けて地中海の一つ島に深く秘め置きました。

 地中海の一つ島というのは、サルジニアという島です。イタリア半島の先にある島で、日本の四国くらいの大きさの島です。

 日本列島は世界の雛形ですが、地中海に相当する場所は瀬戸内海です。そこの播州高砂沖に神島かみじまという島があります。綾部から見てちょうどひつじさる(北西)の方向にあります。沓島・冠島はうしとら(東北)に当たります。

 世界を中心にした場合、サルジニアは坤、日本列島は艮になります。日本を中心にする時は、北海道の富良野の芦別山あしわけやまが艮になります。坤は奄美諸島の喜界島きかいじまにある宮原山みやばるやまです。

 国祖・国常立尊くにとこたちのみことが艮に隠退されました。妻神の豊国姫尊とよくにひめのみことは坤の方向に隠退されました。そこから艮の金神、坤の金神という名称が付きました。

 高杉別は、自分たちが秘蔵していた玉を、このサルジニアに永遠に秘蔵した──日本でいうと神島に納めた。時世時節が来て再びこの玉が地上に出て来る、神の仕組が出て来ることになります。ですから神さまの教えからいうと、艮・坤というのは大変重要な場所です。

 沓島と神島を線で結び、芦別山と鬼界島を線で結ぶと、二つの線はほぼ平行になります。サルジニアと日本を線で結ぶと、ほぼ真横に水平な線になり、艮にも坤にもなりません。これには理由があり、それは地軸が傾いたためです。本来は日本列島の上に北極星があったんですが、地軸が移動したため、このように傾いたのです。
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