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夫の死

 なおが10歳のとき、父の五郎三郎(ごろさぶろう)が病気で亡くなりました。
 その後は暮らしがますます苦しくなり、なおは奉公へ出て、身を粉にして働きました。
 病身の母を気づかい、その孝行娘としての評判はとても高く、12歳のころに福知山藩主から「三孝女」の一人として表彰されたほどです。

 17歳のとき、綾部に住む叔母の出口ゆり(母そよの妹)に望まれて養女となり、19歳のときに大工の政五郎(まさごろう)と結婚しました。
 政五郎は人はよいのですが、遊び好きの酒好きで、結婚後もなおは苦労の連続でした。
 なおは饅頭売りや糸引き、またクズ買いなどの仕事をして生活を支え、三男五女の子供を育てあげました。

 明治18年(1885年)、なおが49歳のとき、夫の政五郎が大工仕事の最中に高い屋根から転落して座骨を打ってしまいました。それがもとで、また長年の飲酒の影響あり、中風になってしまいました。以後、政五郎は床に伏すようになってしまったのです。

 病床で政五郎は、酒を買ってこいとか、梨の皮をむけだとか、相変わらずわがままに振る舞いました。しかしなおは従順にしたがい、その上、「欲しいものがあったら、なんでも言うて下されや」と言って、懸命に看病につとめました。

 なおの献身的な姿に政五郎の心もさすがに変わって行き、ついに、
 「わしは今まで気随気ままなことばかりしておったのに…。お前のような親切な女房はもったいないのう…」
 と涙するようになったのです。
 政五郎は、なおがクズ買いに出かけるとき、中風で思うように動かぬ手をふるわせながら、後ろ姿に手を合わせるようになりました。

 明治20年(1887年)2月、政五郎の病状が悪化しました。
 政五郎は死期を悟ったようで、
 「この世のなごりにもう一杯、お酒が飲みたいがなあ」
 と力ない声で言いました。
 その日はなおの手もとに一文もお金がなく、商売道具の秤(はかり)を持って質屋に行き、三銭貸して欲しいと頼みましたが、質屋はこんなもの質草にならないといって、突き返しました。
 とぼとぼと家に帰る途中、クズ買い仲間の家に寄って事情を話し、秤をかたにして酒代を貸してもらないかと頭を下げました。
 その人は秤を受け取らず、二銭だけお金を貸してくれました。

 そのお金で酒を買って家に帰ると、政五郎は喜び、なおの注いだ酒を飲み干してフーッと息をつくと、
 「ああ、うまい。これで思いのこすことはない」
 と言って、再び床に身を伏せました。

 それから数日後に政五郎は死んだのです。
 葬式は近所の組内から費用を出してもらいましたが、なんとも淋しく、わびしい葬式でした。

 これでなおの32年間の夫婦生活は終わりをつげました。なおが51歳のときのことです。
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