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高熊山について

高熊山
丹波霧に浮かぶ高熊山
 高熊山(たかくまやま)は亀岡市曽我部町穴太の奥山の小高い山で、南桑平野に孤立して聳える小高い山である。

 出口王仁三郎聖師(当時・上田喜三郎 27才)が、明治31年(1898年)旧2月9日、富士浅間神社の祭神・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の神使に導かれるままに、この郷里の山の岩窟に篭り、七日七夜にわたる霊的、肉体的ご修行をなされた。大本では、聖師さまのご入山を記念すると共に、み教えの上からも神縁が深く霊場の一つと定めている。

 『霊界物語』には、高熊山の由来について「高熊山は上古は高御座山(たかみくらやま)と称し、後に高座(たかくら)といい、次で高倉と書し、ついに転訛して高熊山になったのである。丹波穴太の奥山にある高台で、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内 小幡神社の在った所である。・・・(中略)・・・また、この高熊山には古来一つの謎が遺っている。『朝日照る、夕日輝く高倉の、三つ葉つつじのその下に、黄金の鶏、小判千両いけおいた』昔からときどき名も知らぬ鳥が鳴いて、里人に告げたということである」(第一巻・第一章)と示されている。

 『丹波郷土史』の記載によれば、天平8年(736年)高熊山に小幡神社の奥の院が勧請されたとも伝えているが、古来より信仰と歴史と伝承に包まれた霊山である。

岩窟の修業

 聖師さまは、旧2月の寒空のもとで襦袢(じゅばん)一枚で、一切の飲食をたち、無言のまま岩の上に静座する苦行を七日間にわたり続けられた。

 このご修行によって、神人感合の境地に達し、その精霊は、現幽神三界をめぐり、また万有に対する慈悲心、天地のご恩を体得すると共に、三千世界の救世主(メシア)としての大使命を自覚される。

 高熊山修行より23年後の大正10年(1921年)『霊界物語』の口述は、高熊山ご修行中の霊界見聞により窺知することができた霊界の真相、宇宙の真理などが基礎となっている。
高熊山の岩窟
聖師さまご修行の高熊山岩窟
 聖師さまがご入山された当時、山頂は小松林で、中腹から麓までうっそうとした老樹が生い茂っていたが、太平洋戦争のおりに、樹木は残らず伐採されてしまった。

 また、聖師さまが籠られた高熊山中腹の岩壁には、四十八の宝座があった。昭和10年(1935)の第二次大本弾圧事件が起こるまでは、各大祭毎に参拝し、四十八の宝座の一つ一つに小餅をお供えしていた。

 事件によって、宝座のほとんどが削りとられ、今日では数個を残すのみとなっている。
 さらには、岩窟の前方も削りとられた上、その上部のかぶさるようになった岩もなくなり、巨岩そのものが沈下して岩窟も小さくなり、当時と様相はかなり変ってしまっている。
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