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神の戦い

 出雲から帰ってきてから、なおと王仁三郎との間に不協和音が強まり、それがかなり長く続きました。
 普段は仲の良い親子なのに、神がかりになると、おそろしく様子が一変してしまうのです。
 なおには天照大神(あまてらすおおかみ)、王仁三郎には素盞嗚命(すさのおのみこと)の神霊がかかり、雄叫びして、激しい言い争いが繰り広げられました。
 「素盞嗚命が高天原(たかあまはら)をとりにきた」「早く改心せい」
 となおは大声で叫び、ドスンドスンと四股を踏みならすと、王仁三郎は髪を逆立てて体が天上に舞い上がり、
 「われに邪(よこしま)な心なし」「その方こそ早く目をさませい」
 と応酬するのです。この神霊同士の戦いを、「火水(かみ)の戦い」とよんでいます。
 この戦いは数年間つづきました。

 王仁三郎を攻撃したのは、なおにかかる神霊だけではありません。
 当時の役員信者たちは頑迷で狂信的で教条的であり、筆先(なおが自動書記で半紙に書いた神示)の表面の字句にとらわれて、神の真意をなかなか悟ることができませんでした。
 筆先を絶対と崇め、「この世は暗がりであるぞよ」と筆先に出ると、昼間でも行灯(あんどん)をつけて歩くし、「みちのまん中をあゆみて下されよ」と出ると、道路の中央を歩いて馬車が来ても譲ろうとせず、相手がよけると「みたか、神力を」とふんぞり返る。
 「いろは四十八文字で世を新(さら)つにいたすぞよ」と出れば、漢字や横文字は何でも許せず、王仁三郎が読んでいる本を引き裂き踏みつけて、そのうえ王仁三郎が書いた大切な教えの原稿さえも山と積み上げて火をつけて燃やしてしまい、「外国の悪神を征伐した」と狂喜する。

 万事がそんな有様ですから、王仁三郎のやることなすこと何でも妨害されてしまい、活動はなかなか進みませんでした。
 外国かぶれの王仁三郎は開祖の神業の妨害者だとして、王仁三郎を暗殺しようとする一団もあらわれ、実際に殺されかけたこともありました。

 王仁三郎はこれを機会に、教団から離れて時節を待つことにしました。
 明治39年(1906年)、京都の皇典講究所(國學院の前身)に入学して神職の資格をとり、織田信長を祀る建勲神社で奉職したり、御嶽教の大阪大教会長をつとめたりして、教団経営を学びました。

 明治41年(1908年)、王仁三郎は綾部に帰ると、金明霊学会を大日本修斎会に改組し、機関誌を発行し、神苑の拡張整備を進めました。
 いよいよ大本は全国的な活動の時代に入ったのです。
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