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出口直日の時代

 大本は第二次事件で当局により組織も建物も破壊された後、昭和21年(1946年)2月に「愛善苑」として新出発しました。
 出口澄子が苑主になると、昭和24年(1949年)10月に名称を「大本愛善苑」に変更し、さらに開教60周年の昭和27年(1952年)4月1日から「大本」に変更することに決まりました。
 その前日の3月31日に澄子は昇天し、正式名称が「大本」になるのと同時に、直日は三代教主に就任したのです。これも神さまの仕組(経綸)であると言えるでしょう。

 直日教主のもと、大本は大躍進を遂げました。
 二代・澄子の時代から続けられてきた「信徒梅花運動」(信徒を倍加しようという運動)が実を結び、昭和37年(1962年)には信徒数が12万5千人に達しました。

 神苑の整備も順調に進み、綾部・梅松苑にはみろく殿、亀岡・天恩郷には万祥殿が建ち、教典の大本神諭と霊界物語の刊行も着々と進められていきました。

 直日の夫・日出麿(ひでまる)は、第二次大本事件のときの当局による拷問により肉体的な御用は困難になっていました。
 三代教主補という立場でしたが、教団を指導していくことは事実上不可能でした。

 昭和33年(1958年)4月、新発足後総長を務めてきた出口伊佐男(宇知麿)に代わって四代・直美の夫である出口榮二が新しい総長に就任しました。

 第二次大戦後の世界は自由主義・共産主義の両陣営にわかれ、核兵器を中心に終わりなき軍拡競争を繰り広げていました。
 昭和27年(1952年)にアメリカが世界初の水爆実験を成功させると、翌年にはソ連も水爆実験を行ない、その翌年(昭和29年)3月にはアメリカのビキニ環礁での水爆実験により日本の漁船「第五福竜丸」の乗員が被爆して死亡するという事件が起きました。
 これを機に、世界初の被爆国である日本では反核運動が盛んになっていきました。
 大本・人類愛善会はいち早く立ち上がり、4月から原水爆反対の署名運動を始め、6月には160万人もの署名簿をニューヨークの国連本部へ送付しました。
 一般には、日本で原水爆反対の署名運動が行なわれたのは、東京・杉並区の婦人たちが5月から始めたが最初だと言われていますが、大本ではそれよりも1ヶ月前から大々的な署名運動を始めていたのです。
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