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入蒙 ──世界の精神的統一

 大正13年(1924年)2月13日、第一次大本事件で責付出獄(身柄を親族などに預けて勾留を停止する制度)の身だった出口王仁三郎は、極秘裡に日本を脱出して、数人の部下とともにモンゴル(蒙古)に向かいました。

 裁判の二審公判中であり、霊界物語は70巻近くまで口述が終わってますがまだ全巻未完成。そういう状態で遺書まで書き残して日本を飛び出したのは、神命を感じとったからでした。

 大正10年2月12日、第一次大本事件で検挙されたその日、王仁三郎は大阪・梅田の大正日日新聞社にいましたが、白昼の空に上弦の月と太白星(金星)が異様な光を放って輝いているのを目撃したのです。
 それからちょうど3年後の13年2月12日にも、白昼、楕円形の月と太白星が空に輝いているのを見たのでした。
 この異様の現象は、天が自分に、いよいよ神命を奉じて万民の救済、人類愛の実行を促しているものと考え、大陸へ渡ることを決心し、翌日早朝、綾部を出発したのでした。

 この頃のモンゴルや満州のあたりは政治的に不安定であり、モンゴルは3年前の大正10年7月に中国の支配下から独立、王仁三郎の入蒙直後の大正13年11月にソ連に続く世界で二番目の社会主義国家としてモンゴル人民共和国が誕生するという、かなり混乱している時期でした。

 王仁三郎は満蒙独立を夢見る満州浪人や、盧占魁(ろ せんかい)などの馬賊の協力を得て、満州からモンゴルへ行軍しました。
 モンゴル人の中には王仁三郎を「大活仏の出現」として迎える人もおり、王仁三郎の声望はたちまち広がって、続々と馬賊が集まって来ました。

 しかし軍閥の張作霖(ちょう さくりん)はそれを阻止しようとし、6月21日、パインタラという町で盧をはじめ将兵は次々に銃殺され、王仁三郎ら日本人6人も捕まりあわや銃殺刑になる寸前、なぜか刑の執行が中止になり、その後、日本領事館によって救われることになりました。

 王仁三郎がモンゴルに行く前に死を覚悟して書いた遺書『錦の土産』(にしきのみやげ)の中に次のような文があります。

 「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり」

 また、銃殺刑になるときに詠んだ辞世の歌の一首に次の歌があります。

 「いざさらば天津御国(あまつみくに)にかけ上り日の本のみか世界を守らむ」

 これらの言葉の中に、王仁三郎がどういう気持ちでモンゴルに行ったのか、その一端をうかがい知ることができます。

 王仁三郎は日本に強制送還され、7月25日に帰国しました。
 すでに新聞が王仁三郎の入蒙のことを大々的に報道しており、人々に好意的に受け入れられました。
 帰国した王仁三郎をたくさんの新聞記者や一般市民がとりかこみ、あたかも凱旋将軍を迎えるような大歓声がわき起こりました。

 三年前は国賊として罵られていた王仁三郎が、入蒙の壮挙により、一転して英雄のように迎えられたのです。

 その後この入蒙の出来事を王仁三郎自身が著述し、本にして出版されました。現在は『霊界物語』に『特別篇 入蒙記』として収録されています。
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