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神の申したことは一分一厘違はんぞよ

『神の申したことは一分一厘違はんぞよ』

~教団執行部発行「訴訟終結報告」への反論~(平成4年7月)
 大本教団執行部は平成3(1991)年12月8日、「訴訟終結奉告祭」を執行し、一連の「反教団事件」が終結したとして、同日付で「訴訟終結報告」を発行しました。しかしその中には出口栄二氏の裁判に対し、また大本の道統について随所に誤りや一方的な解釈によるごまかし、偽りが見られましたので、真実をお伝えすべくパンフレット「神の申したことは一分一厘違はんぞよ」を翌年7月に発行・配布いたしました。
 当時から20年以上が経過しましたが、現在大本教団公式サイトにおいて「反教団事件の本質」と題して事実に基づかない、また誤った解釈による言説が掲載されておりますので、一方的な情報による誤解の蔓延を防ぐため、ここに再掲させていただきます。
 なお、割付の変更により一部表記の変更を行っておりますことをご了承下さい。肩書は当時のものです。また、パンフレット実物のPDFファイルもダウンロード出来るようにしております。
『神の申したことは一分一厘違はんぞよ』
(1992年7月発行)PDFファイル
『神の申したことは一分一厘違はんぞよ』
~教団執行部発行「訴訟終結報告」への反論~
  1. はじめに
  2. 栄二先生の裁判は大本の道統を守るため
  3. “栄二氏を離縁させ教団から出さねばならぬ”
  4. 直美さまを追放する策謀の一端を吐露した森本部長(第十七回定例総務会)
  5. 三代教主を脅迫した宇佐美総長
  6. 強要、また強要
  7. 弁護士からも強要
  8. 宇佐美執行部は三代教主の隠退までも企てる
  9. 道統の神定と人為 ─ 天地の大神が末代の規則を決めるぞよ ─
  10. 聖師さまのご決定は三代さまでも変えることはできない
  11. 神の言葉に二言なし
  12. 聖師さまは天来の審神者(さにわ)
  13. 裁判で明らかにされた真実

1.はじめに

 昨年十二月八日付にて教団執行部は「訴訟終結報告」を発行しましたが、この中には出口栄二先生の裁判に対し、また大本の道統について随所に誤りや一方的な解釈によるごまかし、偽りが見られます。それに対し、すぐさま真実をお伝えする予定でおりましたが、昨年十二月二十五日に出口日出麿先生がご昇天になり、自粛いたしておりました。しかし、その後、本年の節分すぎ、二月十四日には教団執行部は聖子さんの指導により月山不二のひもろぎ松(みろく松)を撤去するという、許されざる暴挙を行いました。ひもろぎ松撤去に対する心からの信仰的憤りも含めて今回、改めて皆様に裁判の裏に秘められている事実をお伝えし、現在の教団の混乱がなぜ起きたのかという真因をご理解して頂きたいと存じます。いちいち反論してもきりがありませんので、特に重要な点についてのみ、ふれることと致します。なお、教団側が栄二先生処分の理由とした、いわゆる十二項目については、それらが如何に根拠のない不当なものであるかが法廷で明らかにされておりますので、巻末に一覧表として掲げました。ごらん下さい。
 また、教団執行部はいづとみづ事件を栄二先生の裁判と同列に取り扱い、全信徒に対して同じ反教団事件だと説明していますが、これは全く内容の異なる別個のもので、栄二先生の主張と根本的に違うことを明確にしておきます。

2.栄二先生の裁判は大本の道統を守るため

 教団執行部の「訴訟終結報告」では最初から、“裁判することはあやまり”との、まちがった先入観から出発しています。しかし裁判を受ける権利は現憲法により、だれにも等しく与えられた基本的人権の一つなのです。ですから“裁判は誤り”というような教団執行部の言い方は、“まちがった先入観”でないとすれば、信徒をあざむくための意図的な“偽り”と言えましょう。それよりも、教団内で話し合う余地が見出せなくなった出口栄二先生としては、法廷に訴える道しか残されていませんでした。しかも一番大切なこと、つまり栄二先生が提訴された目的は、大本の道統を守るということでした。
 第一回公判に続き、昭和五十七年六月二十八日の第二回公判でも栄二先生が、
「教団は私がながく心を痛め憂慮していた通り、神定の四代教主を追放するという、最悪の事態に至った。私の懲戒処分は次期四代教主出口直美の追放を目的としたいわれなき処分である。この裁判を提訴するに至ったのは、私の地位を守るとともに、四代直美の地位を守り、大本歴代教主の道統を護持するためであります。」
と述べられている通りです。
 教団執行部は“栄二氏の裁判を妻である直美さまが取り下げなかったから教嗣を外した”と主張していますが、それは純真な信徒をあざむくための方便であり、ごまかしです。栄二先生が提訴されるずっと以前から四代直美さまを追放しようとする企てがあったのです。

3.“栄二氏を離縁させ教団から出さねばならぬ”

 昭和四十二年秋、亀岡の中矢田農園でのことです。場所は出口虎雄氏の家で、審査院長であった斉藤継述氏、また大本本部長であった桜井重雄氏など、当時の大本教団の重要幹部が集まりました。“出口栄二はけしがらん。ソ連や中国に行ったりしている。直美さまと離縁させ、教団から出さねばならぬ。”という相談です。“しかし、多少、金を与えなくては出ていかないだろう。三千万円くらいは準備せないかん。”“大阪の野間田氏にお願いしよう。”ということになりました。そこで当時桜井重雄氏の秘書であった佐藤茂雄氏が野間田市太郎氏(大阪本苑長、大本総代会議長をされた)のところに使いとして行きました。佐藤氏から話を聞いた野間田氏はびっくりして「これは大変だ」と、綾部の要荘の出口栄二先生に電話をかけたのです。「大変なことだ。あなたを直美さんから離縁させ、教団から追放しようとしている。電話じゃ詳しく言えない」ということで、昭和四十二年十一月十日、秋のうららかな日の午後、野間田氏は綾部にやってきました。そして直美さまと栄二先生は野間田氏から中矢田農園での謀議のことをじっくりと聞かれたのです。(出口栄二先生メモ)
 なお、その農園での会議に出ていた桜井重雄氏は後日、病気で重態になった時、御見舞に行った大国美都雄氏に対し、人払いをして「実は出口栄二氏を離縁させるという話があり、自分は何とも思わずその会議に出たのだが、そのことが気にかかり苦しくて仕方がない。このことを直美さまにお話して許してもらってほしい」と頼んだのです。大国さんが「よし、伝えてやる」といわれると、桜井氏は安心して昇天したとのことです。(「愛善世界」誌 昭和五十八年八月号参照)栄二先生追放の十四年前のことでした。

4.直美さまを追放する策謀の一端を吐露した森本部長(第十七回定例総務会)

 また、栄二先生追放前の昭和五十六年六月二十四日、東京のプラザホテルでの三者会合(栄二先生、広瀬氏、奥田氏)については既に「機のお仕組」(徳重高嶺氏他)等でご存じのとおり、広瀬静水(現人類愛菩会会長)・奥田宗弘(現大本副本部長)の両氏は栄二先生に、「詫状を出さなければ直美さまにも害(追放)が及ぶ」「これを出せばみんな解決に努力する」といって栄二先生に詫状をかかせました。
 更に、栄二先生の追放を決めた昭和五十六年九月十三日の第五十六回大本総代会の前のことです。九月一日に第十七回定例総務会(天恩郷)があり、栄二先生の追放を話したあと、当時の森本部長は「先のことを私から申し上げてもいけないがこれは第一歩である」「栄二先生の問題は序の口と思って結構だ」「両方あるんだ」と言っています。
 出口虎雄氏宅に教団本部のそうそうたるメンバーが集まって堂々となされた直美さま・栄二先生の離縁の謀議といい、プラザホテルでの奥田・広瀬両氏の言辞といい、またこの森本部長の策謀の一端を明かしたおそるべき発言といい、これらは昭和五十六年の栄二先生追放決定以前から既に直美さま追放を企てていたことを示す、確たる証拠のある明々白々たる事実です。教団執行部は「直美さまは栄二氏の裁判を取り下げなかったから教嗣をはずした」と言って、純真な信徒をあざむいていますが、それは事実をまげた全くの詭弁・ごまかしであります。裁判に提訴されたずっと以前から教団側が栄二先生・直美さまの追放を具体的に企んでいたことは、以上の二、三の事実を見ただけで十分明らかです。

5.三代教主を脅迫した宇佐美総長

 また教団執行部は、教嗣をはずしたのは「三代さまの御決断だ、三代さまがお決めになったことだ」としきりに言います。しかし、裁判の始まった翌年の昭和五十七年頃より宇佐美執行部は三代さまをおどかし、その結果「大本教主」の名により、教嗣変更を始めとし、いろんな暴挙をやってきたことが法廷でも明らかになっています。
 昭和六十一年二月、三代さまは御入院中の大阪市立大学付属病院から、直美さまお作品集「しずはた」の出版をお祝いして、直美さまに、次のようなお手紙と金封の裏を使われ二回にわたって、お歌二首をお贈りになりました。
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八歳の時より うたを学びつつ
祖母のあとつぎ はた織る直美子
之でよいでせうか

よかったねえ、お小づかひは 少しでも、のけておきます 歌集の一助にでもと思って
春日 直子にそっくり 美しいをとめになりました。なほって帰ったら きれいな ふり袖つくってやりたい 冬日にも 御遊の二人の子にも

一生うたと織物 つづけるやうにねがひます  直日

直美様 わたしは全快はまだまだ一年かかるそうですが 花のころには帰宅をゆるされるそうです。
 第一首目のお歌は、二月七日に出された上のようなお手紙の中にお書きになっている。(画像8頁参照)

 また第二首目は、二月十三日に金一封と共に次のお歌を金封の裏にしたためられ、次女の麻子さんを通して直美さまのところにお届けになった。(画像9頁参照)
鉱泉に浸せし糸を機に仕組み
  祖母のあとつぐ一人直美が

うたにはなっていませんがお笑草に
 そして直美さまは三代さまからいただいた二首のお歌を「しずはた」の巻頭に載せられました。
八歳の時よりうたを学びつつ祖母のあとつぎはた織る直美子

鉱泉に浸せし糸を機に仕組み祖母のあと継ぐ一人直美が
 大本では、神のご経綸は「機の仕組」といわれており、この三代さまのお歌は「機の仕組」の「機織る人」として二代さまのあと継ぎは直美さまお一人であることを明確にお示しになっています。〔「機のお仕組」(徳重高嶺氏他 平成三年旧九月十八日)参照〕
 この三代教主の遺言とも言える二首のお歌を見て、宇佐美執行部はあわてました。そして再度にわたり御高齢の三代さまをおどしたのです。

6.強要、また強要

 最初に同年十月二十七日、宇佐美執行部は三代様に強要し、「『しずはた』の二首の歌は道統継承の意味ではない……何年も前に直美にわたしたもの……」などという全く事実に反する偽りの文章を無理に書かせました。(下書面参照)
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 先に述べましたように、三代様は大阪の病院からお手紙で、また金封にしたためられて、二回にわたり直美さまに二首のお歌を贈られたにもかかわらず、宇佐美執行部はこのように全く事実と異なることを書かせたのです。私たちにも三代様の胸のつまるようないたみが伝ってきます。
 更に、お母様としてのあたたかいお心づかいに対して、宇佐美総長はこのままではいつ直美さまに教嗣を戻されるかわからないと心配し、三代さまに教嗣変更のないことを文章に書くように迫りました。そして三代さまは「前言とりけし出来まへん」(12頁A文)と書かれたのです。しかし宇佐美総長は、それでは意味があやふやで不安に思ったのか、改めて「教志へん更はありません」(B文)との文章を三代さまに書かせたのです。そしてその日に開かれた総代会及び翌ニ十四日に開かれた全国機関長会議で、それらのつくられた教主名の文書を配布しました。
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 三代さまはこのように宇佐美執行部により、虚偽の文書を再三にわたり強要されたのです。このことは法廷でも明らかになりました。
 「更生会報」第五十五号(昭和六十一年十一月二十日発行)は、この三代さまのお歌に関して『会離れ阻止に教主様の「お歌」を悪用-守る会-』との見出しのもとに虚偽の記事を掲載しました。その内容の主なものを次に列挙します。
① (三代)教主さまのお歌二首は十余年前のお歌であり…
② (三代)教主さまは直美さまが「本」を出したこともご存じないし…
③ まして(三代)教主さまはその「本」を出すのを祝ってお歌を贈ったこともない。…
④ これら一連の戦略は安本肇氏の演出によるものであり・…
等々です。
 それにより一名誉を毀損された安本肇氏(「愛善世界」誌発行人)は、「更生会報」編集人秋山鎮宏氏に対し謝罪広告を求める調停を同年十二月十五日、大阪簡易裁判所に申し立てたのです。(「しずはた安本名誉毀損事件」)
 二回にわたる大阪簡易裁判所での調停の中で、教団側が三代教主に事実に反する文書を強要したことが明らかになりました。しかし翌昭和六十二年四月十八日、このままでは三代さままで法廷に出ていただくことになりかねないと判断した安本氏は、何よりも三代さまの名誉を守るためとしてこの申し立てを取り下げました。(下書面参照)
昭和六一年(ノ)第一二九三号
     取  下  書
申立人 安 本   肇
相手方 更  生  会
同   秋 山 鎮 宏
 出口直日三代教主が出口直美著「しずはた」の出版を記念し、短歌二首を贈られたことは本調停の席上提示した証拠により明白な事実であるのに、教団側は教主に右事実を否定する文書をお書き頂いていることが本調停で明らかになった。そして、相手方らは右教主の文言を真実と信じて本件更生会報の記事を書いたと弁解し責任を回避している。申立人は教団及び相手方らの態度を大本人としてまことに遺憾とするが、今後相手方らは本件のような裁判所の手を煩わす言動を慎むものと期待し、何よりも教主の名誉を守るために本申立を取下げる.
  昭和六十二年四月十八日
右申立人 安 本  肇 (印)

大阪簡易裁判所 御中
(注・原文転記)

7.弁護士からも強要

 また、昭和五十八年五月に三代さまは直美さま宛に「神苑から立ち退いて下さい」という旨の文書を出されました。しかし、これも先程の三代さまの直美さまへのお手紙には「一生うたと織物続けるやうにねがひます」(8頁参照)と書かれていましたように、三代様のご本心からではありませんでした。同年八月十五日、緑寿館で、平春子さんの疑問に対して三代様は「あれは弁護士さんに書けと言われて書いたんや」「あんたも子供を持つ親やろ、あんたが子供に家を出て行けと言えるか」とおっしゃられていることが法廷でも明らかにされています。(京都地裁における平春子さんの陳述書)
 しかしながら教団執行部の発行した「訴訟終結報告」では、これらのことや、宇佐美総長が強要して三代さまに事実と異なる文書を書かせたことなどは一言もふれておりません。

8.宇佐美執行部は三代教主の隠退までも企てる

 このように、「教嗣変更は三代教主が決められたことだ」とか「三代教主のお言葉だ」ということをふりまわす教団執行部の主張の裹に、いかに恐るべき、驚くべき事実が隠されているかお分かりかと思います。当時の宇佐美執行部は教嗣変更を決めるにあたり、大阪市立大学付属病院に御入院中の三代さまを病院から無理に連れ出し、大阪・天王寺の都ホテルで開いた総代会に出席を願い、教嗣変更の会議を開いています。(このような重要会議を聖地以外で開くのは大本の歴史にかつてないことです。)
 このように、事あるごとに宇佐美執行部は御高齢の三代さまに無理を強要し、文書をかかせ、教主の名をもって全国の純真な信徒をあざむいてきたのです。
 更に宇佐美執行部については、次のような驚くべきこともきいております。それは、教嗣直美さまを解任後、宇佐美総長はある総務を交えて密会をし、「このままでは、守る会が巻き返しに来るかもしれないので、三代教主をこの際隠退させたらどうか。」と企て、相談していたことです。
 この企ては実現しませんでしたが、直美さまを教嗣から外すことが、いかに三代さまのご意図とは違っていたか、また無理矢理に企てられたものであるかがよくわかります。(宇佐美総長は昭和六十二年五月四日死去)

9.道統の神定と人為 ―天地の大神が末代の規則を決めるぞよ―

 さて、開教百年を迎えて大本では、華麗な殿堂が建ち、一見隆盛をきわめているかの様相を呈しております。しかし今年二月十四日、月山不二のみろく松撤去という恐るべき暴挙に見られますように、殿堂建設の一方では、従来大本の神律として誰も疑わなかった大本信仰の基礎が崩されつつあります。いかにも隆盛のような見せかけのもとで進行する大本の変質を、このまま黙って見過ごすことはできません。
 月山不二のご神体のみろく松が、その撤去の理由について事前になんら納得のゆく説明がなされずに、極秘裡にひき抜かれてしまったことは、いままで長い間守られてきた大本の原則が、いとも簡単に破られてしまったことです。この既成事実を黙認し、それに慣れてしまうことは、大本信仰の危機的状況にかかわる憂うべき一大事です。このみろく松の撤去と同じように、いままで当然とされてきた大本の原則が、無視され、根絶されようとしております。
宗教の光り全く地に落ちて伽藍の中にうごめく亡者よ(「東の光」)
 この現実はまことに憂慮に耐えません。その最大なものは大本道統の問題であります。すなわち教主継承につきましては、代々続く女のお世継ぎの家系として大出口家(おおいつきけ)がすでに確立され、厳存しております。そして四代は聖師さまによって決められ、さらに二代さまによって念を押され、三代さまもこれを追認し継承されてきたのです。しかし聖師さまご昇天後の大本教団史のなかで、長い時間をかけて四代の教主継承の改ざんが遂行されました。それは先に述べたように権謀術数の暴政による変更でありました。そのなかで三代さまは利用され、犠牲とされたのです。

10.聖師さまのご決定は三代さまでも変えることはできない

 四代教主継承の改ざん―それはすなわち聖師さまのご決定の否定―は、権謀術数の結果でありますが、教団執行部は三代さまを批判の矢面にたて、三代さまによる決定であるとして強行突破を計ってきました。しかし、大本の教祖である聖師さまのご決定を歴代教主が変更できるのでしょうか。しかもことは道統―教主継承についてのご決定であります。それはたとえ三代さまであってもできません。それでは教団は保たれません。
 大本の道統―教主継承につきましては、大本神諭に次のように厳しく示されております。
「綾部の大本は末代変性男子の御魂の出口直の霊系(ちすじ)でないと世が続いていかんぞよ。肉体が女で御魂が国常立尊の御魂であるぞよ。代々続く女の御世継ぎであるぞよ。此の事は大事の事であるから念を入れて書いておくぞよ。」(明冶四十三年旧九月十日)
 聖師さまは直美さまご誕生に際し、開祖さまの更生とされ、四代と決められました。直美さまは開祖出口なおの霊系どころか開祖そのものの再来です。聖師さまの審神(さにわ)によりそれが確認され、四代と神定められたのです。それはその後まったく変わることなく、聖師さまはご昇天の直前にあらためて「四代に与ふ」として直美さまが四代であることの証(あかし)を直々に直美さまにお与えになっております。この“四代の証”は三冊にわたる大部のもので、天のみろくさまである聖師さまが御自らご署名され⦿(ス)の拇印を押された御染筆です。聖師さまは四代の教主継承に誤りのないように御自らの責任をもってかく迄も念を押されたのであります。

 このような経過を考えますとき、聖師さまの直美さまに対する審神、四代の教主継承のご決定は、大本においては絶対に変えることはできません。神諭にも
「末代の規則を決める場は綾部の大本と末代決まりたのであるぞよ。天のミロクの大神様と地の国常立尊が天地の王で末代の規則を決めるぞよ。」(大正六年旧九月三十日)
と、このように明確に示されております。聖師さまは天のミロクの大神としてのご神権をもって大本においてもっとも重大な事である四代の教主継承者を決められたのであります。したがってこのミロクの大神のご決定を何びとといえども変更することは許されません。

11.神の言葉に二言なし

 しかし教団執行部は、不逞にもこの神のご決定に対して“文句”をつけます。「しかし問題は、聖師さまが一度決められたことは、絶対不変のものとして、如何なることがあっても変えることができないかどうかにあるのです。直美さまやその支援者たちは、いかなる方であっても、絶対に変えられないようにいいますが、そうでしょうか。」(「訴訟終結報告」二十五頁)と、もっともらしい疑問を提示しております。
 この執行部の偽善的妖言に対しては、二代さまのお言葉をもって答えておきましょう。二代さまは開祖さま、聖師さまの厳瑞二大神人を結合され、筆先にも「三人世の元結構々々」とありますように、教団の基礎を固められたお方です。
 二代さまの時代に直美さまの四代継承を変えようとする人々の動きがありましたが、それに対して「大福帳」という、おりおりの備忘の要録帖の中で、神がかり状態のきびしいお言葉とお歌が明確に遺されております。
よくよくに心得なされ教え子よ神の言葉に二つなければ

どれほどに気張りて邪魔をするとても神の仕組は動かざらまし
 このように二代さまがおっしゃるように、聖師さまの四代の道統継承についてのお言葉は、「神の言葉」であります。神さまが決められた四代の道統であります。これについては、二代さまだけでなく、三代さまも同様のお言葉を残しておられます。「四代の教主は直美です。これは神様から定められていることですから私がそれを変えることはできません。……」(昭和四十九年九月十九日)と、はっきりおっしゃっておられます。
 したがって「神の言葉に二言なし」ということは、昔も今もまったく変わりありません。“状況が変わった”という執行部の言葉は、信徒を惑わすための妖言に過ぎません。吾々はこれによって毒をもられないように用心しなければならないのです。
 また執行部では、直美さまが開祖さまの更生であられるという聖師さまの審神についても文句をつけ、混乱を起そうとしております。「次は、直美さまが開祖さまの生まれ変わりだとされる問題です。確かに聖師さまはそのようにお歌やご文章でお示しになっておられます。しかしそのご主旨について今日もそうであると言い切れるのでしょうか。」(「訴訟終結報告」二十九頁)―このように、聖師さまのお言葉にたいし、何一つ根拠がないにもかかわらず、無礼にも変更を画策しております。聖師さまの御教示を否定して大本信仰、大本教団は成り立ちません。

12.聖師さまは天来の審神者(さにわ)

 そして聖師さまは、直美様ご出生の折、このことに関して次のようなお歌(昭和四年七月三十日、三十一日の歌日記)を残しておられます。
久方の天津国より降りたる 嬰子は教祖の更生なりけり

四代なる直美の生れし今日よりは 蘇生るなり大本内外

稚姫の神の命の世に出づる しるしと茂る鶴山の木々

厳御魂教祖の神は分身を 吾大本に降し給へり
 これは聖師さまの直美さまにたいする審神の結果といえましょう。そして大本は、聖師さまの審神者(さにわ)としての絶対性の上に成立しているのであります。これは開教の原点に立ち返ってみれば明らかです。
 明治二十五年の開教時において、開祖さまに神がかられた艮の金神の身上を見分けてくれる人はいなかったのです。そのようなとき「このこと分ける身魂は東から出てくるぞよ」との神諭が出て、三女の久子さんは八木の東口に茶店を開いて、ひたすら東から出てくる審神者を待たれたのであります。やがて聖師さまが「神さまをしらべる役」として綾部にこられ開祖さまに会われました。そして開祖さまの神がかりにたいして、この艮の金神と称する神は、この大地をお創りになった国祖・国常立尊であると審神の断をくだされたのであります。聖師さまはお筆先に定められた「神定の審神者(さにわ)」であり、「天来の審神者」といえましょう。このようにして大本は開教し成立したのであります。したがって聖師さまの審神―四代直美さまが開祖さまの生まれ変わりであるという審神にたいして疑問を投げかけ、それを否定することは、大本の存立そのものを否定することになりましょう。とくに四代の教主継承にかかわる大事についての聖師さまの審神にたいして、大本の役員風情が疑問を表明するなどは実に無礼千万、僭越至極のことであり、信徒をたぶらかす妖言として廃棄すべきことでありましょう。
 大本信徒の皆様には、どうかはっきりと事の真実をご理解頂き、真の大本教団への立て直しのために今こそ、真正・神定四代教主出口直美様のもとに集い、共に頑張らして頂きたいものと念願するものです。

13.裁判で明らかにされた真実

根拠とした十二項目被告教団執行部側主張裁判で明らかになった真実
一、教主誹謗の活動 栄二氏は昭和二八年頃から全国の信徒に対し隠密裡に教主誹謗を続けた。(誹謗=そしること。悪口を言うこと。) 事実無根である。義母である教主に対しそのようなことをするはずがない。
(第13回公判)
二、平和運動への対応 原告はイデオロギー的に“左”に偏り、昭和三七年、教主の平和運動中止命令後、不満を表明。教主に反抗している。 原告は聖師の教えを忠実に守り、けっしてイデオロギー的に偏ってなどいない。
 教主の平和運動中止命令などはない。
(第16・20・21・22・24・35・36回公判)
三、教主権否定の見解 昭和三九年、図書新聞での原告の発言記事(「教主によって左右されるようではダメ……」は教主権を犯すもの。 殊更一部を取り上げて教生権否定だと曲解しているが、全体でみ教えの大切なことを示したもの。原告の言動は一貫して教主の指導のもと教団が結束することを訴えている。
(第14・24・25・37回公判)
四、「いづとみづの会」の活動への対応 教主の意に反していづとみづの会の活動を鎮める努力をしなかった。 原告はそれを抑えるなどできる立場ではない。
(第13・28・29・30回公判)
五、宮垣分苑の分離問題への対応 栄二氏は教主の意に反し祭教院長名で宮垣分離に反対の回答をした。 教主が主会から新たに「主会」を分離発足しようとされたことは全くなく、原告が教主の意に反した回答をしたことはない。
(第13・30・31回公判)
六、節分の豆まきの称呼 昭和四九年から教主の許可なく豆まきの唱え方を「鬼は内、福は内」から「福は内、鬼も内」に変更した。 教学委員会で検討後、教主もご了解。四九年節分に教主自ら第一声を発せられている。そもそも昭和四四年に「福は内、鬼も内」から「鬼は内、福は内」へと変更し、鬼は王仁でもあるなどと説明したのは誤り。
(第14・31回公判)
七、蒋介石総統の侮辱発言 昭和五〇年みろく大祭にて原告は蒋介石総統侮辱発言をした。 だれも蒋介石を侮辱したと受け取っていない。倉田地久氏が殊更に問題視したもの。執行部は既に解決済みのもの(昭和50年9月25日)を再度問題にする。
(第14・25・26・37回公判)
八、東京本部建設事業の妨害 昭和四三年、原告は九州各地で東京本部献金の必要はないと話し、東京進出の妨害をした。 そんなことは言っていない。むしろ資金の調達に保証人になるなど積極的に協力している。
(第15・27回公判)
九、教主ごあいさつの改ざん 原告は昭和五二年開祖大祭教主挨拶を教主の許可なしに大幅に改ざんした。(改ざん=悪用しようとして直すこと―講談社「日本語大辞典」) 国際会議を二日後に控え、問題が起きないようにと教主のお立場を考えての修正であり、代読後、教主のご了解を得ている。そもそも教学にうとい山本教主秘書が単独で起案したことが問題。
(第15・23・24・36回公判)
一〇、神教宣伝活動の妨害 原告は
①昭和四五年、日本光明化シリーズを批判した。
②昭和五二年、開祖大祭特別講座で大石氏の講話等を非難した。
③昭和四九年、節分大祭で宣伝使をシャクで殴打した。
④昭和五二年、九州で特派宣伝使を多数の前で誹謗した。
 神教宣伝活動の妨害と共に原告の信仰的、人間的欠陥が長期にわたり改善されなかった。
①執行部は聖師が昭和五、六年頃詠まれた「国体」 「マルクス」に関するお歌を戦後の平和憲法下で不用意に引用した。栄二先生はそのような時代錯誤を注意されたもの。
②大石氏の「……日出麿先生を発見される……ことが聖師様の……究極の目的だった…」の発言に対し、教学委員会で問題になったことを分りやすく話したもの。
③宣伝使を笏で殴打したなど全くない。
④特派宣伝使を多数の前で非難したなど現地の人も聞いていない。
(第15・16・26・31・32・37回公判)
一一、沓島海域での魚釣り 昭和五五年、沓島・冠島開き八〇周年記念参拝において原告は聖域で魚釣りに興じ、元伊勢参拝など他の重要神事を欠略した。 魚釣りをした場所は沓島・冠島からずっと離れた場所であり、聖域(竜宮海)ではない。聖師ご自身、沓島からの帰路、冠島で貝や蟹を取られたこともある。
(第14・27・37回公判)
一二、綾部工房の失火事件 昭和五一年一一月、梅松苑工房から出火したが、原告は責任を他の信徒奉仕者に転嫁した。 原告は消防署に対しても出火の責任を認め陳謝している。責任を他者に転嫁したなどということは全くない。
(第14・28回公判)
◎上の公判内容についての記録は教団執行部の手元にありますので見て下さい。また、大本信徒連合会にも備え付けてありますので閲覧ご希望の方はご連絡下さい。
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