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囚われの身

 第二次大本事件での当局の取り調べは苛酷をきわめ、自白を強要するために肉体的・精神的な拷問が当たり前のように行なわれました。
 それは死に至らしめるものであり、起訴された61人のうち、終戦後に大審院判決が出るまでの間に16人もが亡くなっていることからも、拷問の厳しさがよく分かります。

 出口王仁三郎聖師自身も長髪をつかまれて引きずり回され、失神したことも度々ありました。
 三代教主補の出口日出麿(ひでまる)は、熾烈な拷問の結果ついに精神に異常を来たしてしまいました。その悲鳴は王仁三郎の独房にまで聞こえ、

拷問にかけられ我が子のヒイヒイと苦しむ声を聞くは悲しき
日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな

 という悲痛な歌を詠んでいます。

 昭和11年(1936年)3月、当局は61人を治安維持法違反で起訴しました。王仁三郎ら11人には不敬罪もあわせて適用されています。
 第一審は105回の公判を行ない、昭和15年(1940年)2月29日に全員有罪の判決が出されたのです。
 王仁三郎には無期懲役の刑が与えられ、ほかに懲役10年以上が5人、残り全員にも2年以上の懲役刑が言い渡されました。

 第二審公判中の昭和16年12月8日、ついに日本はアメリカに宣戦布告をし、世界を相手にた無謀な戦争が幕を切りました。
 奇しくも6年前、第二次大本事件が起きたのと同じ日に、戦争が起きるとは……

 第二審は120回も公判を重ね、昭和17年7月31日に、治安維持法に関しては全員無罪という判決が出されました。
 この瞬間、法廷が喜びの声でどよめいたのは言うまでもありません。
 しかし不敬罪に関しては王仁三郎に懲役5年、ほか8人の被告に対しても懲役の判決が出たので上告し、また当局も治安維持法違反の無罪を不服として上告しました。
 こうして双方の言論戦は大審院へと持ち込まれることになったのです。

 裁判の期間中、被告人たちは順次釈放されていきましたが、王仁三郎と澄子と出口宇知麿(うちまる)の3人だけは最後まで獄中生活を続けていました。
 同年8月7日、保釈が許された3人は亀岡に帰ってきました。
 実に6年8カ月もの独房生活です。王仁三郎はすでに70歳を超えていました。
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