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平和運動

 昭和33年(1958年)に総長となった出口榮二は反核・平和運動を推し進めました。
 翌34年頃から安保闘争が激化して行き、35年1月に日米安保条約が締結されたのです。
 大本は36年4月から「憲法擁護・軍備全廃」の署名運動を始め、その年の10月には750万人もの署名を集めて国会に請願しました。

 米ソ間の戦争の危機も高まってゆきました。
 昭和35年(1960年)5月にはアメリカの秘密偵察機がソ連領空で打ち落とされるU-2撃墜事件が、36年8月には冷戦・分断の象徴であるベルリンの壁の建設が始まり、37年10月にはキューバ危機が勃発。
 今この瞬間にも米ソの核兵器の発射ボタンが押されるかも知れないという時代だったのです。

 昭和37年(1962年)7月、モスクワで世界平和評議会が呼びかけた「全般的軍縮と平和のための世界大会」が開かれ、120ヶ国から2千数百人の代表者が集まりました。
 出口榮二は日本宗教者平和協議会の代表として参加し、大会の議長団に選出され、道徳に関する委員会では戦争の罪悪性の強調と、不戦の世界的世論の提案を行ないました。
 日本に帰国する途中、中国仏教協会の招請を受けて、中国に2週間にわたり滞在し、周恩来首相を始め各界の要人と懇談して友好を深めました。

 この時代、世界各国は米ソの二大国に翻弄され続け、日本国内も政治的・社会的に紛糾しました。
 その影響は大本の中にも及んだのです。
 米ソの軋轢が大本の中にうつったのだともいえるでしょう。

 出口榮二は中国から帰国した直後に、総長を更迭させられたのです。
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