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みろく下生

 第一次大本事件の影響で、大本の信仰から離れていく信者も多数いました。
 また幹部の中にも、大本から離れ去る者もいました。
 浅野和三郎や谷口正治(雅春)、友清九吾なども次第に大本から離れていきました。

 しかしその一方で王仁三郎は、入蒙以降、全国への宣教活動を活発化させ、新しい信者を増やしていったのです。
 当時日本の領土だった樺太、千島、朝鮮、台湾はもちろん、中国や欧州、中南米などにも宣伝使(宣教者のこと)を派遣し、大本の支部を設立していきました。
 王仁三郎自身は無論のこと、二代教主の出口澄子や三代教主補の出口日出麿(ひでまる)も、全国を巡教に駆け回りました。

 大正13年11月に王仁三郎は、
「これまで、大本の教の説き方が、時節に応じて変ってきたのも、すべて神界からの都合のことであった。けれども霊界物語が出たからには、もう
 変ることはない。したがって、霊界物語をしっかり腹におさめて、真の教のタネになってもらいたい。」
「今後は霊界物語の拝読と、海外宣伝に力を入れたい」
 と述べており、教団運営の基本理念が『霊界物語』に置かれていたことが分かります。

 昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)、亀岡の神苑で「みろく大祭」が開かれました。
 この日は王仁三郎が明治4年(1871年)旧7月12日に生まれてから、ちょうど56歳7カ月にあたる日なのです。

 大本開祖・出口なおは厳の御魂(いづのみたま)、王仁三郎聖師は瑞の御魂(みづのみたま)といい、厳の御魂は「5」に、瑞の御魂は「3」という数字に深い因縁があります。
 また弥勒菩薩は釈迦が入滅してから56億7千万年後に地上に現われ人類を救済するといわれていますが、大本では「567」という数字に深い意味を持っており、「五六七」と書いて「みろく」と読ませています。

 瑞の御魂に因縁のある3が3つ並ぶ3年3月3日に、みろくの56歳7カ月を迎えるというのは、まったく神の仕組であるといえるでしょう。
 この日、王仁三郎は「みろく下生(げしょう)」を宣言し、いよいよ、みろく神業のために現界的活動を開始することになったのです。これは大本神業上、重要な出来事の一つです。
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